長尾邦景(ながお・くにかげ) ?〜1450

越後守護・上杉氏の重臣。長尾高景の嫡男。別称を光景か。性景と号す。右京亮・上野守。越後守護代。
康応元:元中6年(1389)2月に戦死した父・高景のあとを受けて越後守護代となる。
応永30年(1423)10月頃に幕府より追討の対象とされ、越後国内で邦景方と守護方(上杉頼藤・長尾頼景ら)に分裂しての抗争となったが、国人らの反目をも利用してこれを凌ぎきり、応永34年(1427)11月頃には幕府から「元の如く」赦免を得ている(越後応永の乱)。おそらくはこれを機として入道して性景と号したと思われ、上野入道とも称された。
幕府と和睦したのちの正長元年(1428)10月15日、邦景は鎌倉公方・足利持氏謀叛の風聞を幕府に注進するとともに忠節を尽くすことを伝え、11月28日にはその忠節を賞されて新将軍・足利義教の信任を得た。また、永享2年(1430)5月28日には越後国の沙汰(統治)を幕府より保障されており、永享7年(1435)1月23日には義教の諮問相手である三宝院満済と会談して足利持氏への対策を協議するなど、越後守護・上杉氏の被官でありながらも幕府直属ともいうべき地位に在った。
足利持氏がその補佐役である関東管領の上杉憲実と対立したことから起こった永享の乱や、持氏の遺児である足利安王丸春王丸兄弟が挙兵した結城合戦に際し、幕府からの出陣要請を受け、嫡男の実景が越後軍を率いて多大な功績を挙げている。
義教からの信任を後ろ楯として威勢を高め、おそらくは恣意的な領国経営を行ったものと推察されるが、嘉吉元年(1441)6月に義教が赤松満祐に殺害されたことで後ろ盾を失い(嘉吉の変)、越後守護の上杉房定が宝徳2年(1450)に支配力の強化を企図して越後国に入部すると、11月12日に切腹を命じられた。法名は光明寺殿徳岩性景。
子の実景は信濃国に逃亡した。