足利持氏(あしかが・もちうじ) 1398〜1439

第3代鎌倉公方・足利満兼の嫡男。母は一色範直の姉。幼名は幸王丸。左馬頭。出家号は道継。
応永16年(1409)7月に没した父・満兼のあとを継いで、9月に4代目の鎌倉公方となった。
翌応永17年(1410)8月、叔父にあたる足利満隆に謀叛の噂が広まるが、関東管領・上杉憲定の仲介で和睦、弟の乙若丸(のちの足利持仲)を満隆の養子とすることで落着した。こののちの12月に元服して4代将軍・足利義持より一字を与えられて持氏と名乗り、左馬頭に任じられる。
好戦的で権勢欲が強かったとされる。応永20年(1413)には伊達持宗が陸奥国信夫郡の大仏城に拠って叛いたが、畠山(二本松)国詮を大将とする軍勢を派遣して同年の暮れに鎮圧した。また、関東管領(12代)・上杉禅秀(氏憲)は持氏の傲慢さを不満として応永22年(1415)5月、関東管領職を辞任。この禅秀は翌応永23年(1416)10月に謀叛を起こすに至った(上杉禅秀の乱)。
この抗争において禅秀方の軍勢に鎌倉を逐われ、一時は相模国まで逃れたのちに幕府より派遣された今川範政らの援軍を得て辛うじて鎮定したが、その後に報復措置として持氏が禅秀の残党や、禅秀の乱に加担した京都扶持衆(幕府に直属する武士)らを執拗に攻めたことから上杉氏との確執を招くこととなった。また甲斐国や常陸国の守護任命などの人事において、本家にあたる将軍家や室町幕府とはことごとく意見が対立。幕府の意向を無視して守護の人事を武力で意のままにしようとしたことから、幕府や将軍との関係も急速に悪化した。
応永30年(1423)には幕府との軍事衝突の危機にまで発展したが、関東管領(14代)・上杉憲実の奔走で和睦に至る。しかし義持唯一の男子で5代将軍位にあった足利義量が応永32年(1425)2月末に病没すると、同年11月に使者を派遣して義持の猶子になりたいと請うたが拒絶され、応永35年(=正長元年:1428)に義持が没し、足利義教が6代将軍となると幕府との対立は再燃し、以前にも増して悪化した。永享6年(1434)3月18日付で鶴岡八幡宮に奉納された願文は朱墨に血を混ぜて書かれた『血書願文』と呼ばれ、願文中にある「呪詛怨敵」とは将軍である義教を指している、とされている。
その後もたびたび他家の抗争に乗じて勢力拡大を目論んだり、幕府に反抗する態度を見せたりしていたが、これを見かねて諫めた上杉憲実と対立。
そして永享10年(1438)8月、持氏はついに憲実の征討命令を下し、ここに上杉一派と持氏方の武力衝突が始まった(永享の乱)。しかし戦端が開かれると配下諸将からは相次いで見限られ、さらには幕府の支援を受けた上杉一派に敗北を喫した。
同年11月に出家して赦免を望み、憲実も持氏の助命嘆願を行ったが幕府はこれを赦さず、翌永享11年(1439)2月10日、幕府の厳命を受けた上杉勢に攻められて自害した。享年42。法名は楊山道継。