上杉憲実(うえすぎ・のりざね) 1410〜1466

越後守護・上杉房方の三男。幼名は孔雀丸。通称は四郎。安房守。
応永25年(1418)1月に第13代関東管領・上杉憲基が没したが、憲基に子がなかったため、従兄弟にあたる憲実があとを継ぐことになった。
応永26年(1419)8月、10歳で元服。ほどなく伊豆・上野守護職と第14代関東管領を兼ね、関東地方を治める鎌倉府の執事(補佐役)として鎌倉公方・足利持氏に仕えた。
責務に忠実、性は謹直であると伝わり、事あるごとに幕府や将軍・足利義教に反抗の姿勢を示す持氏をたびたび諫め、幕府とも通じるなどして持氏の野心を抑えようと試みた。しかし持氏はこれを容れようとせず、しだいに対立は深まった。
永享10年(1438)6月、持氏の嫡男・賢王丸(のちの足利義久)の元服に際して持氏との不和は決定的なものとなり、憲実を討伐しようとする動きがあるとの風聞が流れたため、持氏との闘争を避けて8月に所領の上野国に下向した。しかし、持氏が憲実討伐の軍勢を派遣したことから、関東地方を二分する内乱・永享の乱が勃発した。この永享の乱において憲実は幕府の支援を受け、「官軍」として持氏を破り、翌永享11年(1439)2月の乱の鎮定後に持氏を保護下においたのち、幕府に持氏の助命を願い出たが退けられ、やむなく持氏父子を自害させている。
その後の同年6月末、鎌倉公方の執事であるはずの関東管領職にありながらも主君・持氏を討ったという罪に苛まれ、持氏の墓所として建立した長春院に参詣したのちに自害を図り、随行していた家臣に止められたときには既に腹を半分切るという重症であったが、一命は取りとめた。同年11月、山内上杉氏家督と関東管領の職掌を実弟の上杉清方に譲って伊豆国の国清寺に隠遁、出家して長棟と号した。
しかし翌永享12年(1440)3月に結城合戦が勃発すると、幕府から関東管領への復帰を強く要請され、はじめは固辞したが4月には政務への復帰を決断し、関東における最大の実力者として指揮を執った。
文安2年(1445)頃に清方が没したため、再び山内上杉氏の政務を執る。
文安4年(1447)11月、前年に山内上杉氏の家督を継承していた長男・憲忠を義絶して伊豆国に隠退、その後は西国へ向けて放浪の旅に出たという。
宝徳4年(1452)、長門国大寧寺に入る。長門守護・大内氏の招きによるものという。その後の余生をここで過ごし、文正元年(1466)閏3月6日に没した。享年57。法名は雲洞院高岩長棟。
好学の士としても知られ、金沢称名寺の「金沢文庫」の再興、下野国の足利学校にも多くの漢籍を寄進してその再建に尽力したことは有名である。