上杉憲基(うえすぎ・のりもと) 1392〜1418

山内上杉氏。第11代関東管領・山内上杉憲定の嫡男。佐竹氏の家督を継いだ佐竹義憲の実兄。右京亮・安房守。上野・伊豆守護。
応永22年(1415)5月18日、鎌倉公方・足利持氏と不仲になって関東管領職を辞任した上杉禅秀の後任として第13代の関東管領となった。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱においては、10月2日夜の禅秀勢の挙兵を受けて防戦を試みるも4日の鎌倉市街戦で敗れて相模国小田原、ついで叔父・上杉房方の守護領国である越後国へと逃げ落ちた。
幕府より禅秀勢の討伐を命じられた駿河守護・今川範政や越後守護・上杉房方らの軍勢によって攻められた禅秀が応永24年(1417)1月10日に自害すると鎌倉へ戻り、その後の3月3日には鎌倉の円覚寺正続院へ土地を寄進して、敵や味方を問わず禅秀の乱において死んだ者の菩提を弔っている。
同年4月26日に関東管領職を辞して伊豆国の三島にて隠棲したが、閏5月24日には鎌倉へ戻り、6月30日には関東管領職に復帰した。この鎌倉帰参に際し、持氏より上野・伊豆国の闕所地(敗戦者から没収した土地)の領有を認められている。
応永25年(1418)1月4日、嗣子なく没した。27歳。法名は宗徳院心元海印。