佐竹義憲(さたけ・よしのり) 1399〜1467

第11代関東管領・上杉憲定の二男。第13代関東管領・上杉憲基の実弟。幼名は龍保丸。初名を義憲、のちに義人・義仁と改名。右京大夫。常陸国太田城主。
応永14年(1407)9月に常陸守護で佐竹氏11代当主であった佐竹義盛が後嗣なく没したため、義盛の娘に婿入りして佐竹氏家督を継承することが決まったが、佐竹氏庶流の山入与義・額田義亮らは清和源氏である佐竹氏に藤原姓の上杉氏から後継を迎えることに反発し、義憲の入国を阻止しようとした。この内訌は鎌倉公方・足利持氏の軍事介入によって沈静化され、義憲は応永15年(1408)6月に佐竹氏の家督を相続するに至るが、山入氏との間に禍根を残すこととなった。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱には鎌倉府(持氏)陣営に属し、10月4日の鎌倉市街戦では甘縄口小路に布陣した。乱の鎮定後には功によって鎌倉府評定衆の頭人に任じられた。しかし、禅秀方に与したが許された山入与義は『山入一揆』と呼ばれる一派を結成し、禅秀の乱鎮定後も義憲に対して敵対を続けた。
この両者の対立に、義憲を支持する持氏が京都扶持衆である与義を応永29年(1422)閏10月に討ったために幕府の介入を招くこととなり、この内訌は佐竹氏の惣領を争う闘争であると同時に、鎌倉府と幕府の威信を懸けた代理戦争の様相となった。
幕府は応永30年(1423)6月に与義の子・祐義を常陸守護に任じたため、守護職に義憲と祐義が競合する事態となったが、応永31年(1424)に持氏と幕府に和睦が成立し、応永32年(1425)閏6月には両者で半国守護として常陸守護職を分け合うことになった。
永享9年(1437)に隠居して家督を子・義俊に譲ったと見られるが実権は掌握し続けていたようであり、永享10年(1438)8月からの永享の乱には幕府・上杉一派方に与し、それまでも一貫して幕府方に属していた山入氏との抗争は起こしていないようである。
しかし永享12年(1440)の結城合戦には持氏遺児の足利安王丸春王丸兄弟や結城氏朝に与し、結城氏の居城である下総国結城城に籠城している。翌嘉吉元年(1441)4月に結城城が陥落したのちも氏朝の遺児・結城成朝を匿って太田城に籠もったため幕府勢の追討を受ける破目に陥ったが、同年6月に京都で将軍・足利義教が横死した事件(嘉吉の変)によってうやむやとなり、事なきを得た。
応仁元年(1467)12月24日に没した。法名は耕山寺竹堂本晃。