山入祐義(やまいり・すけよし) ?〜?

佐竹一族。山入一揆の頭領・山入与義の子。
応永29年(1422)閏10月、佐竹氏宗家の当主・佐竹義憲と敵対していた与義が、義憲を支持する鎌倉公方・足利持氏の軍勢による襲撃を受けて鎌倉屋敷で自害すると、祐義は常陸国久慈郡額田城に拠って抗戦し、翌応永30年(1423)3月には鎌倉府軍によって額田城を落とされたが、同じく京都扶持衆で持氏に反発して挙兵に及んでいた小栗満重の拠る常陸国真壁郡小栗城に入城して抵抗を続けた。
同年5月には持氏自ら小栗城攻めに出馬し、この報せを受けた幕府は山入・小栗氏らの支援を決め、とくに祐義は6月5日に4代将軍・足利義持より常陸守護に任じられている。しかし小栗城は幕府軍の来援を待たずして同年8月に陥落し(小栗城の戦い)、祐義は落ち延びて常陸国内で抵抗を続けた。
この後に持氏が幕府に謝罪を申し入れ、応永31年(1424)2月に幕府と鎌倉府の間で和議が成立し、翌年閏6月には祐義と佐竹義憲とで常陸国の守護職を分け合うことで落着したが、水面下での緊張状態は続き、応永35年(=正長元年:1428)1月の義持の死没、足利義教の将軍職継承を契機として再燃し、同年8月には再び持氏から討伐の対象とされるが、南陸奥の篠川公方・足利満直ら幕府方勢力と提携して抗戦した。
永享10年(1438)8月からの永享の乱において、はじめ持氏方に属すも持氏の劣勢を見て再び幕府・上杉一派方についたとする史書もあるが、前後の経緯からすると疑わしく、一貫して幕府方であったと思われる。続く結城合戦においても、幕府軍に属して参陣している。