山入一揆(やまいりいっき)

応永14年(1407)、上杉憲定の子である龍保丸(のちの佐竹義憲)の佐竹氏入嗣に反対する山入与義・額田義亮・長倉義景らによって結成された連合体。
彼らはいずれも佐竹一族であるが、清和源氏の後裔である佐竹氏の血脈に藤原姓の上杉氏から養嗣子を迎えることに異を唱えて挙兵に及んだ。この抗争は翌年には沈静化したが、その後もことごとく佐竹宗家に敵対した。
この一揆の頭領である山入氏は京都扶持衆、いわば幕府の直臣ともいえる家格であったため幕府の支援を受け、対する佐竹宗家は鎌倉公方や関東管領を後ろ盾としたため、一家中の内訌という規模を超えて鎌倉公方や幕府までをも巻き込む抗争となり、関東地方における幕府と鎌倉公方の代理戦争と化した。
この抗争は数代に亘って続けられ、永正元年(1504)に山入氏義が討たれたことで終息するが、100年にも及ぶ分裂闘争は佐竹氏の分国統一への大きな障害となった。