山入与義(やまいり・ともよし) ?〜1422

佐竹一族。佐竹師義の子。上総入道。常元と号す。山入一揆の頭領。常陸国山入城(別称:国安城)主。
山入氏は佐竹貞義の七男・師義が足利尊氏に従って軍功を挙げて常陸国国安に所領を与えられて本拠とし、国安の通称である山入を姓として称したことに始まる。のちに京都(幕府)扶持衆となったことから、佐竹一族の中でも特別な位置にあった。
応永14年(1407)9月に佐竹氏惣領の佐竹義盛が嗣子なく没したのち、関東管領・上杉憲定の二男である龍保丸(のちの佐竹義憲)を養子に迎えて佐竹惣領の家督を相続させることが決まると、これに反発して龍保丸の入部を阻止しようとしたが、鎌倉公方・足利持氏によって鎮定された。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱においては、上杉禅秀方に与して義憲の属す鎌倉府陣営と戦った。この抗争は鎌倉府方の勝利となったが、山入氏は京都扶持衆という地位にあったために持氏も重い処罰を科すことができず、赦免されている。
禅秀の乱鎮定後も義憲に反抗を続け、額田義亮・長倉義景・稲木義信らと一揆(山入一揆)を結ぶ。
応永25年(1418)、幕府は持氏を牽制するため与義を常陸守護に推したため、佐竹氏惣領の地位をめぐる抗争が再燃し、同年5月には義憲派であった実弟の小田野自義を自害させている。京都扶持衆の討伐を目論んでいた持氏はこれに乗じて義憲を支援し、応永29年(1422)閏10月13日に持氏の軍勢によって鎌倉の比企谷屋敷を攻められ、自害した。