上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう) ?〜1417

犬懸上杉朝宗の子。「禅秀」とは出家したのちの号名であり、名は氏憲(うじのり)。右衛門佐。上総・武蔵守護。鎌倉の釈迦堂谷に屋敷があったので、「釈迦堂殿」とも呼ばれた。
応永16年(1409)7月に第3代鎌倉公方・足利満兼が没した際に父・朝宗が隠退したことを受け、犬懸上杉氏の家督を相続した。
応永18年(1411)2月9日に山内上杉憲定のあとを受けて第12代の関東管領に就任、第4代鎌倉公方・足利持氏を補佐した。
しかし応永22年(1415)4月に家人・越幡六郎が鎌倉への不出仕を理由に持氏によって所領を没収されたことから鎌倉府と対立し、5月2日には関東管領職を辞職。その後、4代将軍・足利義持の弟である足利義嗣や陸奥国安積郡篠川の篠川公方・足利満直、その兄弟の足利満隆らと結ぶとともに、老獪な政治力によって鎌倉府や持氏に強い不満を持つ勢力を糾合して反鎌倉府の連合体を形成して大規模な謀叛を企て、応永23年(1416)10月に足利持氏と新関東管領・上杉憲基の邸宅を急襲した(上杉禅秀の乱)。
この襲撃によって鎌倉の制圧に成功し、持氏・憲基を関東から逐ったが、幕府が持氏を支援する姿勢を明らかにすると諸将の離反が相次いだ。
のち、幕府によって派遣された軍勢との戦いに敗れ、応永24年(1417)1月10日に鶴岡八幡宮の別当・雪ノ下御坊で自害した。法名は傑山禅秀。