上杉朝宗(うえすぎ・ともむね) 1339?〜1414

関東管領・犬懸上杉憲藤の子。上杉朝房の弟。幼名は幸若丸。修理亮・中務少輔。号は禅助。居地から釈迦堂とも呼ばれた。
父・憲藤が暦応元年:延元3年(1338)3月に摂津国で北畠顕家の軍勢と戦って討死した際には幼少であったため、兄・朝房とともに家臣の石川入道覚道に養育され、長じて鎌倉公方の足利氏満に仕える。
貞治4年:正平20年(1365)から永和2年:天授2年(1376)の間に朝房に代わって上総守護となり、その後は応永4年(1397)6月までは在職が確認でき、同年7月から応永16年(1409)7月には武蔵守護に転じている。また、朝房が上洛して幕府に出仕するに際して(応安5:建徳3:1372末頃か)犬懸上杉氏の家督を譲られたと見られる。
この間の康暦2:天授6年(1380)6月、下野守護であった小山義政が反乱を起こすと、足利氏満の命を受けてその鎮定戦に大将のひとりとして出陣し、翌年2月、さらにその翌年の3月と義政が挙兵に及ぶたびに出陣して功績があった(小山義政の乱)。また、嘉慶元:元中4年(1387)7月には小山義政の子・小山若犬丸を匿っていた常陸国小田城主・小田孝朝の攻撃にも出陣している(小山若犬丸の乱)。
応永2年(1395)3月9日、前年に辞職した山内上杉憲孝のあとを受けて関東管領に就任。
応永5年(1398)11月に足利氏満が没し、嫡子の足利満兼が鎌倉公方の地位を継承すると、これを補佐したが、応永12年(1405)9月12日、その職を辞した。高齢のためであろうか。
応永16年(1409)7月22日に足利満兼が没すると、その死を悼んでその夜のうちに遁世し、上総国長柄山胎蔵寺に隠退するとともに家督を子・上杉氏憲(禅秀)に譲った。
応永21年(1414)8月25日没。享年76か(一説には81)。法名は徳泉寺道元禅助。