北畠顕家(きたばたけ・あきいえ) 1318〜1338

後醍醐天皇の側近・北畠親房の長男。幼少でありながらも元亨2年(1322)1月に従五位上に叙され、元徳2年(1330)には蔵人頭を経ず左中弁。元徳3:元弘元年(1331)、従三位。
元弘3年(1333)6月に後醍醐天皇が建武政権を興すと8月には陸奥守に抜擢され、10月には陸奥国の統治にあたるため父・親房とともに後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国府の多賀城へ赴任。義良親王を将軍、北畠氏を執権に擬して鎌倉幕府を模した政治機構を設置して出羽国をも併せて管轄し、得宗北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏)より没収した郡地頭職を再編するなどして、奥州の経営に努めた。同年12月には任国に在りながらも、従二位に叙せられている。
建武2年(1335)10月、中先代の乱を鎮定した足利尊氏が鎌倉に留まって建武政権への叛意を明らかにするとその追討を命じられ、11月には鎮守府将軍にも任じられて12月下旬より義良親王を奉じて進撃を開始、翌建武3(=延元元年:1336)1月には新田義貞と協力して尊氏を京都から逐って西国へと奔らせ、比叡山に逃れていた後醍醐天皇を京都に迎えた(北畠顕家の征西)。かつて尊氏も称していた鎮守府将軍の称号を不服とし、後醍醐天皇に奏請して「鎮守府大将軍」に改称したのは、このときのことである。
これらの功で権中納言に任官され、3月には陸奥国の太守となった義良親王と共に再び奥州へと下向した。しかし顕家らが西上している間に曽我・安東・石河・留守・武石・相馬らの諸氏が足利方に寝返っており、その妨害を受けつつ5月下旬に陸奥国府の多賀城に入るも戦況は芳しくなく、翌建武4:延元2年(1337)1月には多賀城から伊達郡霊山城に拠点を移す。
この間に尊氏は九州で態勢を調え、建武3年5月の湊川の合戦楠木正成らを破り、後醍醐天皇を退勢に追い込んで北朝を樹立させていたが、同年12月に大和国の吉野に拠って南朝を興した後醍醐天皇の要請を受け、建武4:延元2年8月に至って義良親王を奉じて霊山城を発向。奥州の騎馬武者軍団を率いて進撃し、同年12月には新田義興北条時行らを陣営に加え、足利義詮軍を大破して鎌倉に入る。
続いて建武5(=暦応元):延元3年(1338)1月2日に鎌倉を発向して東海道を猛進、わずか20日あまりで美濃国へ至って28日には青野原で土岐頼遠・桃井直常軍を破ったが(青野原の合戦)、期待されていた北陸の新田義貞軍との合流はせずに、進路を南に転じて伊勢路へと向かった。この理由は、合流して京都を陥落させたとしても功を義貞に奪われることを嫌ったためとする説、顕家軍に加わっていた北条時行が父の仇である義貞を嫌っていたとする説などがある。
伊勢国から伊賀国を経て大和国に入った顕家軍は間もなく高師直軍と戦うが、顕家軍は長躯の遠征軍で在ったことや小規模な遊撃戦に翻弄されて大敗を喫し、顕家は河内国へ、義良親王は白川宗広に伴われて吉野へと逃れた(般若坂の合戦)。
顕家はそののちも敗軍をよくまとめて河内・摂津・和泉国などに転戦し、3月には摂津国天王寺において細川顕氏軍を破るなど一時は優勢を取り戻すも、5月22日に顕氏軍を来援した高師直軍と和泉国の堺浦や石津浜において戦うが敗れ、吉野へ逃れようとしたところを、阿倍野で武蔵国住人の越生四郎左衛門尉という者に討たれ、首級を丹後国住人の武藤右京進政清に取られた(北畠顕家の征西:その2)。享年21。顕家の霊は現在、阿倍野神社・霊山神社に祀られている。
なお、この合戦の出陣前の5月15日付で7ヶ条から成る『顕家諫奏』を後醍醐天皇に上呈し、建武新政府に対する批判を行ったことは有名である。