足利尊氏(あしかが・たかうじ) 1305〜1358

室町幕府の初代征夷大将軍。在職期間は暦応元:延元3年(1338)〜延文3:正平13年(1358)。足利貞氏の二男。母は上杉頼重の娘・清子。通称は又太郎。初名は高氏。
元応元年(1319)10月に元服、従五位下・治部大輔に任じられる。
元徳3:元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府を倒して天皇親政の実現を目論む後醍醐天皇が笠置城に拠って抵抗した際にはこの鎮圧を命じられ、翌月には幕府軍の大将のひとりとして大仏貞直らと出陣した。また、この出陣と時を同じくして父・貞氏を亡くしており、貞氏の嫡男で兄・高義が早世していたこともあって、足利氏惣領の地位を継いでいる。
正慶2:元弘3年(1333)3月、前月に隠岐を脱出して伯耆国船上山に拠った後醍醐天皇の軍を討つため、母や嫡男・義詮らを鎌倉に残して名越高家と共に幕府の大軍を率いて上洛したが、その途次で後醍醐天皇の綸旨に応じて4月29日に丹波国篠村八幡宮で討幕の旗を挙げ、5月7日には赤松則村(円心)・千草忠顕らと共に京都の六波羅探題を滅ぼした。
また、5月8日に上野国で倒幕に決起した新田義貞の軍に4歳の義詮を参加させ、この軍勢が21日に鎌倉を制圧したことで鎌倉幕府は滅亡するに至る(鎌倉の戦い)。
鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇の主導による建武政権が成立すると武蔵国など3ヶ国と北条氏遺領から数多の郡・荘を与えられ、6月には従四位下・左兵衛督、8月には従三位・武蔵守に任じられ、名も後醍醐天皇の諱から一字を賜って尊氏と改めた。
尊氏は六波羅探題の攻略直後より奉行所を設置して実質的に武将たちを統括しており、弟の足利直義も遠江国のほか多くの所領を与えられ、12月には成良親王を奉じて鎌倉に下向して東国の行政裁判にあたるなど重用されたことから足利氏の威勢と声望は高まり、武士たちから旧幕府の継承者と見なされたが、その半面で新田義貞・楠木正成・名和長年や護良親王らとの軋轢が深まり、建武元年(1334)6月には「護良親王が尊氏を討つ」との風聞が流れたため洛中が騒擾し、罪に問われた護良親王が捕らえられて鎌倉に護送されている。
建武2年(1335)7月に信濃国で挙兵した北条時行が鎌倉を襲撃すると直義は三河国に敗走し(中先代の乱)、8月2日に尊氏はその討伐のために京都を発つ。このとき征夷大将軍への補任を望んだが後醍醐天皇はこれを許さず、成良親王をこれに任じて尊氏を征東大将軍に任じた。
三河国で直義と合流した尊氏が北条軍を駆逐して19日に鎌倉を奪回すると、後醍醐天皇は勲功として従二位に任じるとともに勅使を送って帰京を命ずるが、途中で新田義貞勢が襲うとの風聞があるとして直義に上洛を諌められると尊氏はこれを容れて鎌倉に留まった。後醍醐天皇はこれを反逆と判じて11月に尊良親王・新田義貞の軍勢を派遣するが、尊氏は天皇の軍勢と戦うことを躊躇し、政務を直義に譲って浄光明寺(建長寺とも)に引き籠った。やむなく直義が出陣したが、各地で直義の軍勢が追討軍に敗れて窮地に陥っているとの報を受けると、直義救出のため出陣を決意。12月11日の箱根・竹ノ下の合戦で義貞軍を破り、敗走する新田軍を追撃して一気に京を目指した。
尊氏らは建武3年(1336)1月11日に京都に入るが、後醍醐天皇の命を受けて追撃してきた北畠顕家の軍勢に敗れ(建武3年の京都攻防戦)、2月には丹波国を経て西国へと向かうが、この西走は単なる敗走ではなく再起への布石であった。その途次の播磨国室津での軍議で山陽道や四国の諸将の配置を定めて追撃阻止の態勢を定めるとともに、2月中旬には備後国の鞆において、かつて後醍醐天皇によって廃された光厳上皇からの院宣を得た。これによって尊氏は後醍醐天皇に敵対する朝敵ではなく、光厳上皇の軍勢としての地位を得たのである。
2月末に九州入りした尊氏は、3月2日の多々良浜の合戦で九州最大の天皇方勢力であった菊池武敏の軍勢を破って九州での優勢を確固たるものとすると4月3日に博多を発って上洛の途につき、5月25日の摂津国湊川の合戦で楠木正成・新田義貞らの率いる軍勢を撃破、6月中旬に光厳上皇とその同母弟・豊仁親王を伴って入京を果たした。
8月に豊仁親王が即位して光明天皇となり、10月には湊川の合戦直後より近江国坂本に移っていた後醍醐天皇も京都に還幸して神器授与の儀を行い、一応の和睦は成った。そして11月7日、尊氏は建武式目を制定して幕府の開設を内外に示す。しかし12月21日に後醍醐天皇が吉野に脱出して正統な天皇であることを主張、ここに皇家は分裂し、いわゆる南北朝の動乱が始まる。
後醍醐天皇(南朝)の呼びかけに応じた北畠顕家・新田義貞らの活動も活発化したが、暦応元:延元3年5月には和泉国堺浦で顕家が、同年閏7月には越前国藤島で義貞が討たれ、翌暦応2年(1339)8月には後醍醐天皇が吉野で崩御したことで、南朝方の攻勢は一時停滞する。この間の暦応元年8月、尊氏は北朝から正二位・征夷大将軍に任じられた。
しかし貞和5:正平4年(1349)、新たな抗争が勃発する。「観応の擾乱」と呼ばれる足利家中の内訌である。
草創期の幕府において、尊氏が軍事指揮権・恩賞権・守護補任権などを握って全国の武士を統括し、弟の直義が所領等の裁決を行って統治面での政務を執行しており、この二頭政治は初期こそ有効であったが、しだいに尊氏党、直義党とも言うべきそれぞれの側に密接する勢力が形成されることになった。とくに尊氏直属の軍団長とも言うべき地位にあった高師直の威勢が増大し、所領不足を訴える麾下の将士に公家・寺社の所領の押領を認める師直と、法を遵守させる立場にある直義との間で反目が深まっていった。
同年8月、師直が5万余騎ともいわれる大兵力を動員して直義邸を圧迫したことで両者の対立は決定的なものとなり、この事態を憂慮した尊氏は直義を自邸に匿って和睦を斡旋し、直義党の上杉重能・畠山直宗の配流や、直義が政務から引退して義詮に後継させるなど、師直側の要求をほぼ全面的に通す形で和睦が成ったのである。
しかし事態はこれで収まらなかった。翌観応元:正平5年(1350)10月末、九州の足利直冬討伐のために尊氏・師直らが京都を離れている隙を衝いて、直義が尊氏から離反して南朝に帰順したのである。この直義・南朝軍に京都を制圧された尊氏は軍勢を返して奪還を試みるが成らず、観応2:正平6年(1351)2月に和議を結んで帰京するに至った。しかし尊氏・義詮父子と直義の不和は止まず、身の危険を察知した直義は8月に京都を脱出して北陸、ついで関東へと向かって11月に鎌倉に入っているが、この間の10月に尊氏も南朝へ帰順し、南朝の後村上天皇から直義追討の綸旨を得て11月には関東へ出陣、同年末には駿河国で直義勢を破った。
この後に両者の間で和睦交渉が持たれ、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)1月に兄弟で鎌倉に入ったが、直義は2月26日に急死した。その死因は病死とされているが、当時から尊氏の手による毒殺説が囁かれている。
いずれにしても直義の死によって足利氏の内訌である観応の擾乱は終結を見るが、未だ政情の安定は成らなかった。この年の閏2月、後村上天皇から尊氏らの帰順を容れたのは「暫時の智謀」だったとして挙兵を命じられた上野国の新田義興義宗兄弟(新田義貞の子ら)が鎌倉へ向けて進発した。また、時をほぼ同じくして畿内でも南朝軍が蜂起して義詮が守る京都へ攻め入っており、ここに尊氏と南朝は決裂したのである。
尊氏は新田軍の他、信濃国に在った後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じた南朝軍や旧直義党の武将であった上杉憲顕石塔義房らと人見原・金井原・小手指原などで戦い、一時的に鎌倉を占拠されはしたものの、苦戦の末に南朝軍を駆逐して鎌倉に入ったのは3月12日(武蔵野合戦)。この間、京都でも義詮の軍勢と南朝勢の激しい攻防が繰り広げられていたが、関東の情勢も予断を許せず、帰京することはできなかった。後事を子の足利基氏やその執事・畠山国清に託して京都に帰還したのは文和2:正平8年(1353)9月21日である。
翌文和3:正平9年(1354)12月にも南朝軍は京都に侵攻し、尊氏は北朝の後光厳天皇を奉じて近江国に退避しているが、翌年3月には播磨国からの義詮勢と呼応して京都を回復し、この攻防戦をもって畿内は一応の静穏を取り戻した。
延文3:正平13年4月30日、京都二条萬里小路邸で死去。背中にできた腫瘍が原因という。享年54。贈従一位左大臣、のち太政大臣を追贈。法号は等持院、法名は仁山妙義。前月には再び南朝方が勢力を盛り返していた九州への出征を計画していたが、尊氏の健康状態を気遣った義詮に諌められて断念したという。
尊氏の性格は、建武2年11月に後醍醐天皇から新田義貞率いる追討軍を差し向けられるという事態にあっても「これまで天皇の龍顔を昵近し奉りて、勅命を請て、恩言といい、叡慮といい、いつの世いつの時なりとも、君(天皇)の御芳志を忘れ奉ることはできない」と逡巡しながらも、代わって出撃した直義が苦戦しているとの報を受けて「直義が命を落とさば、我有りても無益なり。但し、違勅のこと、心中において発起に非ず」と出陣を決意し、建武3:延元元年8月17日付で清水寺に捧げた自筆願文では「自身には後生の救いのみを、直義には現世での果報と安穏を願う」旨を欲し、数多の戦場で窮地に陥ったときには何度も自害を思い立っては家臣に止められるなど、情が深く直情的であったとされる。夢窓疎石は尊氏を評して「強胆で死に臨んでも笑を忘れず、人を憎まず敵にも寛宥で、心広く財宝を惜しまない」という3つの徳をあげている。その尊氏が直義を殺害した(とされる)のは、直義との並立によって二元化した政治権力を集約して嫡子の義詮に委譲するため、との説が有力である。
また、尊氏の評価はその時代の皇国史観や政治情勢によって激変しており、明治42年(1909)には山路愛山が時代を代表する英雄と評価しているが、明治44年(1911)に南北朝正閏論が起こると逆臣として非難されることが多くなる。しかし戦後には古代の王朝権力を倒して歴史を進展させたこと、畿内近国の新興武士団を組織化したことなどが再評価されるようになっている。