足利基氏(あしかが・もとうじ) 1340〜1367

室町幕府初代将軍・足利尊氏の子。母は北条(赤橋)久時の娘・登子。2代将軍・足利義詮の同母弟。幼名は光王・亀若丸。左馬頭・左兵衛佐。号は瑞泉寺殿。
幼年期は叔父・足利直義に猶子として育てられて京都に在ったが、高師直との対立で失脚した直義の後任として義詮が貞和5:正平4年(1349)10月に鎌倉から上洛するに際し、その後任として鎌倉に下向して鎌倉府の主となり、上杉憲顕と高師冬を執事(のちの関東管領)とした。
観応元:正平5年(1350)に師直と直義の対立が激化(観応の擾乱)、翌年8月には直義が京都を出奔して鎌倉に下向してきたため鎌倉府は直義を迎え入れ、追撃してきた尊氏の軍勢を迎え撃つことになるが、ここに基氏の直接的な関与は見られない。直義党であった上杉憲顕の主導によるものであろう。
この尊氏と直義の抗争は観応3(=文和元):正平7年(1352)1月に決着するが、この頃の基氏は尊氏と直義の不和を嘆き、和睦を調えようとしたが許されなかったために鎌倉を去って安房国に「忍居」していたが、尊氏に呼び戻されたという。同年2月25日に元服。だがこの翌日の26日、尊氏に降った直義が死没している。
その直後の閏2月に北朝と南朝の和平(正平の一統)が破れ、上野国で挙兵した南朝勢力の新田義興義宗兄弟らの軍勢に攻められて鎌倉を逐われたが、武蔵国に進撃していた尊氏と合流し、翌月には鎌倉を奪回した(武蔵野合戦)。
文和2:正平8年(1353)7月、京への帰還を控えた尊氏の命を受け、後任の執事・畠山国清とともに、上野・越後国方面の南朝・旧直義党勢力への警戒のために武蔵国入間川に出陣した。この入間川の在陣はこの後9年にも及んだことから、「入間川殿」とも称された。また、時期は不詳であるが、この入間川在陣期に畠山国清の妹を妻にしたようである。
延文3:正平13年(1358)10月に新田義興を謀殺してその与党を帰属させた。
延文4:正平14年(1359)10月には、京都の義詮を助勢するために畠山国清を大将に任じて軍勢を派遣している。
康安元:正平16年(1361)11月、畿内からの帰国後に圧制を布くようになっていた国清を、諸将の要請を容れて追放に処した。これに対して国清は領国の伊豆国で城郭の防備を固めて対抗したため、討伐軍を催して伊豆国に派遣。翌康安2(=貞治元):正平17年(1362)8月には自ら武蔵国入間川の陣から伊豆国に出陣し、9月に降している。
貞治2:正平18年(1363)3月、上杉憲顕に手厚い書状を書いて関東管領への復帰を要請した。しかしこれに反対する宇都宮氏綱が挙兵したため、8月に自ら軍勢を率いてこれを鎮圧し(苦林野の合戦)、宇都宮氏を屈服させた。
貞治6:正平22年(1367)4月26日に没した。享年28。法名は玉岩道マ。3月半ば頃より体調が優れなかったようであり、当時の鎌倉に流行した麻疹(はしか)であったと伝わる。
また一説には、兄の義詮から敵対勢力と見なされている不和を憂慮し、自ら死を祈ったともいう。
遺命により鎌倉の瑞泉寺に葬られた。