足利尊氏・直義の兄弟は観応元:正平5年(1350)末より分裂抗争に及んでいたが和睦し、観応3(=文和元):正平7年(1352)1月5日(6日とも)に揃って鎌倉に入った。しかし直義は牢のような屋敷での監禁生活を強いられ、同年2月26日に急死した。その死因は病死と公表されたが、尊氏による毒殺との噂もまことしやかに囁かれている(観応の擾乱)。
この事態は擾乱時における直義党であった武将たちの強い反発を生み、上杉氏を中心とする関東の直義党は、閏2月16日に上野国にて軍事行動を開始した新田義興・義宗兄弟や脇屋義治ら南朝勢と結託し、信濃国に在った宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁立して鎌倉へと侵攻した。この中には建武2年(1334)に蜂起して尊氏に鎮圧された北条時行も加わっている。
この突然の反尊氏連合軍の侵攻に虚を衝かれた尊氏は、17日に鎌倉を捨てて武蔵国狩野川(神奈川)に撤退し、その翌日の18日に新田勢が戦わずして鎌倉を占拠した。
19日に武蔵国谷口まで北上した尊氏は20日に武蔵国府中の人見原(または金井原)で新田義宗・上杉憲顕ら率いる反尊氏連合軍と交戦。この日の戦闘は一進一退であったが、結果的には尊氏軍は要害の地である江戸湾(東京湾)岸の武蔵国石浜まで後退して兵を収め、追撃してきた新田勢は「河向の岸高くして屏風を立てたる如し」という石浜の地形を攻めきれず、夕刻になって軍勢を退かせたようである。
石浜で軍備を調えた尊氏は、25日に武蔵国府中へと出陣した。武蔵国の内陸部に勢力基盤を有する新田勢と鎌倉の間を扼し、新田勢の兵站線を断つ戦略である。尊氏はここで軍勢を二手に分け、北方には薬師寺公義・仁木頼長らを送り、尊氏自身は鎌倉を目指して南下した。
28日には武蔵国小手指原で足利軍と南朝方の新田義宗・上杉憲顕らの軍勢が激戦を交えるが、新田勢が敗れて北方へ後退し、高麗原や苦林、笛吹峠でも防戦にあたったが、ここでも敗れて越後国方面へと敗走した。一方の鎌倉では新田義興・脇屋義治・北条時行らが駐留していたが、ここも支えきれずに3月2日に鎌倉を退去し、相模国河村城へと落ち延びていったのである。
尊氏が鎌倉を奪回したのは12日のことであった。