新田義興(にった・よしおき) 1331〜1358

新田義貞の二男。新田義顕の弟。新田義宗の兄。幼名は徳寿丸。左近将監・左兵衛佐。
7歳のときの建武4年(1337)12月、北朝勢力の圧迫が強まっていた上野国で蜂起し、2万余騎と称される軍勢を集めて武蔵国に進出。そして2度目の征西戦に臨む北畠顕家宇都宮公綱らと連合して鎌倉を攻め、斯波家長を討って足利義詮を逐い、鎌倉を制圧した(北畠顕家の征西:その2)。
この後は顕家と行を共にして畿内へ向かったと見られ、建武5(=暦応元):延元3年(1338)5月の顕家敗死後に軍団が離散すると大和国吉野の後醍醐天皇のもとへ参じ、天皇の御前での元服を許され、義興の諱を与えられたという。
南朝軍の柱石であった北畠顕家や同年閏7月の父・義貞の戦死によって劣勢が明らかとなると、東国の南朝軍を再建するため、北畠親房白川(結城)宗広や後醍醐天皇の皇子である義良・宗良の両親王らと共に、9月に伊勢国大湊から奥州に向けて出帆したが、途中で暴風雨に遭遇して船団は離散し、義興は武蔵国石浜に上陸した。
その後の動静は不詳であるが、潜伏しつつ勢力の拡大に努めていたと思われ、足利尊氏直義兄弟の内紛(観応の擾乱)の混乱に乗じて文和元:正平7年(1352)閏2月15日(あるいは16日)、弟の義宗と共に上野国に挙兵して武蔵国へ進撃し、18日には足利尊氏が戦略的に放棄した鎌倉を占拠。20日には戦備を整えた尊氏勢と武蔵国府中の人見原(または金井原)で戦うも勝利はならず、28日に新田義宗・上杉憲顕の軍勢が武蔵国小手指原で尊氏勢に敗れて北方へ敗走したことによって勢力を分断され、3月初め頃には鎌倉を放棄して相模国の河村城に移った(武蔵野合戦)。
その後は何処かに潜伏して勢力の回復を図っていたようだが、延文3:正平13年(1358)10月10日(年月日に異説あり)、畠山国清の送り込んだ新田氏旧臣・竹沢右京亮の謀略によって武蔵国多摩川の矢口渡で自害に追い込まれた。享年28。
この義興の無念さを代弁してのことか怨霊となって祟るという伝承が生じ、江戸時代には平賀源内によって『神霊矢口渡』として戯曲化されている。