白川宗広(しらかわ・むねひろ) ?〜1338

結城一族。白河結城氏・白川祐広の子。結城朝広の孫。母は熱田神宮大宮司・熱田範広の娘。通称は孫七。上野介。号は道忠。
鎌倉幕府の執権・得宗北条氏の命を受けて南奥州方面における年貢催促の使節を務めるなど、北条氏得宗と接近することによって勢力の拡張を図った。
元亨4年(1324)9月26日付の子・親朝宛ての書状で、この直前に勃発した正中の変の顛末を「当今(天皇)御謀叛」と表現して報じていることは著名である。
元徳3:元弘元年(1331)、討幕を企てて笠置山に拠った後醍醐天皇を攻めるために足利尊氏らと共に鎌倉幕府軍として出陣したが、正慶2:元弘3年(1333)3月に護良親王からの令旨が、同年4月には後醍醐天皇から討幕の綸旨がもたらされると情勢を見てこれに応じ、自らの参陣はなかったものの、子の親光が六波羅攻めに加わっている。
これに信任を得て、同年に鎌倉幕府が倒されて建武政権が樹立したのちに北畠顕家が陸奥守に任じられると、宗広は顕家の陸奥国着任までの諸郡奉行や検断といった重責を命じられ、着任後には陸奥国府の多賀城に出仕して奥州式評定衆に起用された。また、建武元年(1334)1月には後醍醐天皇より、結城朝祐に替わって結城氏の惣領として認められた。
この頃、陸奥国白河郡に白川城を築く。
建武2年(1335)7月の中先代の乱を鎮圧した尊氏が鎌倉に駐留して帰京を拒むと、結城一族の結城盛広らが尊氏に与して離反。子の親朝も多賀城から白川城に帰るという不穏な動きを見せるが、同年12月に顕家が建武政権への敵対が明らかとなった尊氏の追討に出陣(北畠顕家の征西)した際には、宗広・親朝ともに顕家に従って京都へ進撃している。
建武3:延元元年(1336)1月の尊氏勢との京都攻防戦においては、尊氏方となった同族の小山・結城一族と戦うことになったが、翌月には尊氏を九州に奔らせている。この功績で3月、宗広は後醍醐天皇より「道忠(宗広)は公家の宝である」と賞され、名刀『鬼丸』を下賜された。
その後に顕家と共に帰国の途につくが、その途次の4月2日付で所領を孫の白川顕朝に与える譲状を書いており、5月下旬に多賀城に帰着。
しかしこの頃、九州で態勢を立て直して東上した尊氏が京都を奪還し、同年12月に大和国吉野に逃れて南朝を興した後醍醐天皇やその側近・北畠親房から救援を要請する綸旨や令旨を度々受け、建武4:延元2年(1337)8月に至って再び顕家に従って出陣し、10月には下野国小山城を攻略。このときに同族の小山朝郷が捕えられたが、宗広の懇願によって顕家は朝郷を許したという。
進撃を続ける顕家軍は12月に鎌倉を陥落させ、建武5(=暦応元):延元3年(1338)1月には美濃国青野原で北朝軍を破ったが、2月の大和国奈良の般若坂の合戦で破れて顕家は河内国へ、宗広は義良親王を奉じて吉野に逃れた(北畠顕家の征西:その2)。
そして閏7月、奥州に親王を下向させて南朝勢力を再建させることを献策し、それが容れられると義良親王・宗良親王、北畠親房・顕信父子、新田義興北条時行伊達行朝らと共に9月に伊勢国大湊を出航して海路から東国を目指したが、遠州灘で暴風雨に遭って遭難し、義良親王・顕信・宗広らの船は伊勢に吹き戻された。義良親王と顕信は吉野に帰ったが、宗広は伊勢国安濃津の光明寺で病に罹り、同地で没した。
その臨終の際、「(子の)親朝が後生を弔おうというなら、ただ朝敵の首を取って墓前にかけて並べて見せよ」と言い遺し、抜刀を逆手に持って歯ぎしりしながら死んでいったという。
三重県津市の結城神社は宗広の霊を祭る。