北条時行(ほうじょう・ときゆき) ?〜1353

鎌倉幕府第14代執権・北条高時の二男。幼名は『保暦間記』は勝長寿丸、『梅松論』は長寿丸、『太平記』は亀寿、『北条系図』は全嘉丸・亀寿丸とする。通称は相模二郎。
正慶2:元弘3年(1333)5月、新田義貞らの鎌倉攻めによって父・高時以下が自害して鎌倉幕府が滅亡した際(鎌倉の戦い)、若年であった時行は諏訪盛高に護られて密かに鎌倉を脱出し、信濃国の諏訪頼重のもとに匿われた。
建武2年(1335)、北条氏再興を企図する時行は叔父の北条泰家(別称を時利・時興)や北条氏と昵懇であった大納言の西園寺公宗、かつて越中国の守護であった北条(名越)有時の子・時兼と呼応して京都・鎌倉を一斉に襲撃することを計画していたが、事前に発覚して西園寺公宗は捕えられるも、時行は諏訪頼重とその子・時継や滋野一族ら信濃国の勢力に奉じられて7月14日に単独での挙兵に踏み切り、上野・武蔵国を経て鎌倉へと進撃、鎌倉に在った足利直義義詮らを逐って同月25日には鎌倉を占拠した。しかし大軍を率いて京都より下ってきた足利尊氏の軍勢によって撃破されて8月19日には鎌倉を奪回され、諏訪頼重・時継父子らは自害、時行は信濃国方面へと落ち延びた(中先代の乱)。
建武4:延元2年(1337)7月、南朝の後醍醐天皇から恩赦の綸旨を得て赦されるとともに建武政権より離脱した足利尊氏・直義の追討を命じられ、陸奥国より進発して西上する北畠顕家の軍勢に合流して鎌倉攻撃などに従軍したが、建武5(=暦応元):延元3年(1338)5月に顕家が摂津国で敗死して軍団が瓦解すると、南朝が行宮を置く大和国吉野に退いた(北畠顕家の征西:その2)。
同年9月、南朝では退勢を打破するために東国の軍勢を糾合して京都へ攻め上るという案が用いられ、時行も義良親王・宗良親王や北畠親房白川(結城)宗広伊達行朝新田義興らとともに伊勢国大湊から出帆したが、遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭遇して四散した。時行の漂着した場所は不明であるが潜伏して探索を逃れていたらしく、暦応3:興国元年(1340)6月に至って信濃国大徳王城に挙兵。しかし信濃守護・小笠原貞宗の軍勢によって包囲を受け、10月下旬に大徳王城が陥落したのちは再び潜伏したようである。
観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月、観応の擾乱による北朝勢力の分裂に乗じて新田義興・義宗兄弟が上野国で挙兵し、18日に鎌倉を占拠。新田勢に呼応して兵を挙げた時行も鎌倉に入ったが、反撃に転じた足利勢の攻撃を支えきれずに撤退を余儀なくされた(武蔵野合戦)。
その後は三度潜行したが、翌文和2:正平8年(1353)に捕えられ、5月22日に鎌倉郊外の龍ノ口で斬首された。