新田義宗(にった・よしむね) 1334?〜1368?

新田義貞の三男。母は常陸国の八田真知(貞知の誤記か)の娘。新田義顕義興の弟。武蔵守・左兵衛佐・左近衛少将。
幼少時の動静は不詳であるが、6歳のときに昇殿を許されたといい、暦応3:興国元年(1340)6月には武蔵守の官途名で所領安堵の文書を発給している。
この前後頃より越後・信濃国境付近で活動していたと推察されており、文和元:正平7年(1352)閏2月15日(16日とも)に兄・義興と共に上野国で挙兵して武蔵国へと進撃。18日に足利尊氏が放棄した鎌倉を占拠し、20日には武蔵国の人見原(または金井原)で戦備を整えた尊氏軍と戦って武蔵国石浜まで追撃したが、要害を攻めきれずにその日は撤退。28日に小手指原で再び尊氏軍と戦ったが敗れ、その北方の高麗原や笛吹峠でも戦っているがここも支えきれず、ついには越後国に向けて敗走した(武蔵野合戦)。
その後は越後国で小規模な蜂起を繰り返して北朝勢力と戦っており、応安元:正平23年(1368)2月に河越直重ら武蔵国平一揆や下野国の宇都宮氏綱が鎌倉府に反抗して蜂起すると、その混乱に乗じて義宗も脇屋義治と共に同年7月に越後・上野の国境で挙兵したが、上杉能憲憲春兄弟らの軍勢に攻められて討たれたという。
『宮下氏過去帳』では義宗の命日を正平23年7月10日とするが、『細川頼之記』は義宗討死を応安2:正平24年(1369)としている。