新田義貞(にった・よしさだ) 1301〜1338

新田朝氏(別称を氏光・朝兼とも)の長男。通称は小太郎。
新田氏は上野国の新田郡世良田を本拠として、上野地方に大きな勢力を持っていたが、鎌倉幕府からは冷遇され続けた。
義貞の名の史料上の初見は、文保2年(1318)10月に新田氏の氏寺である長楽寺の再建のために新田荘八木沼郷の田畠を売却したことである。
元徳3:元弘元年(1331)の元弘の乱に際して鎌倉幕府軍に属して西上し、楠木正成の拠る河内国千早城の攻撃に加わるも、後醍醐天皇からの北条高時追討の綸旨(実は後醍醐天皇の皇子・護良親王による偽の綸旨)を受けると腹心の船田義昌と共に密かに反幕の計画をめぐらし、病と偽って千早城包囲戦から離脱して帰国した。
帰国後には北条得宗家が畿内へ大軍を出征させるための臨時税を取り立てるために派遣した徴税使を斬って討伐に起つことを決めているが、この頃の北条氏は長楽寺の支配に乗り出していたと見られており、このことからもすでに北条得宗家との共生関係が破綻していたことが窺える。
正慶2:元弘3年(1333)5月8日、新田荘行品明神の社頭で討幕の兵を挙げた義貞は一族の大館宗氏・堀口貞満・脇屋義助らのほか越後国からも馳せ参じた同族を加えた軍勢を率い、世良田から利根川を渡って武蔵国に入り、11日には小手指原で桜田貞国らの幕府軍を破り、15日には分倍河原で北条泰家軍を撃破して多摩川を越えた。この間、陸奥国の石川氏や武蔵国の熊谷氏、さらには足利義詮も義貞に呼応して参戦したので、その勢力はたちまちのうちに強大なものとなった。
5月18日から22日にかけての攻撃で鎌倉を攻略し、鎌倉幕府の実権を握る北条高時の一族を東勝寺に滅ぼして討幕を成す(鎌倉の戦い)。しかし討幕の功をめぐって新田・足利の間には険悪な空気が漂い始めたため、6月に至って義貞は鎌倉を放棄して上京した。
同年8月、後醍醐天皇による倒幕の論功行賞において従四位上・越後守、および上野・播磨両国の介に任じられ、ついで近衛中将・武者所の頭人となった。
京都の六波羅探題を陥落させた直後より奉行所を設置して地方武士の掌握に努めていた足利尊氏との対立が、この頃から再び顕在化する。建武2年(1335)7月の中先代の乱を契機に、鎌倉に駐留したままで武家政権の再興に着手した尊氏を討伐するため、追討の宣旨を得た義貞は官軍の大将として派遣され、三河国矢作川の合戦で足利勢を破るが、12月の伊豆国箱根・竹ノ下の合戦で敗れると、京を目指して敗走した。
翌建武3年(1336)1月には追撃してきた尊氏軍の入京を許すが、尊氏を追撃してきた北畠顕家の軍勢と連携して尊氏を京から逐った(建武3年の京都攻防戦)。この後、尊氏は九州へ向かい、義貞は中国地方の経略に出陣して尊氏に与する赤松則村(円心)の拠る播磨国白旗城を攻めるが、この間に九州・中国・四国の軍勢を加えた尊氏が東上してきたため、軍勢を返して摂津国兵庫で楠木正成らと共にこれを迎え撃つが、和田岬に陣した義貞は大敗を喫して京都に逃れ、湊川に布陣した正成は戦死した(湊川の合戦)。
この後、京都を制圧した尊氏は8月に光明天皇を践祚させ、10月には後醍醐天皇も和して京に還幸するも、12月21日に至って後醍醐天皇が吉野に脱出して正統な天皇であることを主張したことから皇家は北朝(光厳上皇・光明天皇方)と南朝(後醍醐天皇方)に分裂した。
義貞は一貫して後醍醐天皇に従っており、抗戦の拠点を作るために後醍醐天皇の還幸に先立って恒良・尊良の両親王を奉じて北陸に下向、気比氏治の援助を得て越前国の金ヶ崎城に拠った。
しかし建武4:延元2年(1337)3月、金ヶ崎城は斯波高経・仁木頼章・今川頼貞・高師泰らの攻撃により落城して恒良親王は捕えられ、尊良親王は自害した。落城に先立って義貞は杣山城へと逃れ、そこで再挙をはかることとしたのである。
その後、比叡山勢力の援助を得た義貞は勢力基盤の一角である越後国との連絡を回復して勢力を挽回し、翌建武5(=暦応元):延元3年(1338)には斯波高経の拠る越前国府に迫るほどであったが、同年閏7月2日、50余騎を率いて藤島城攻撃に向かう最中に斯波方3百余騎と燈明寺畷で遭遇し、眉間に矢を受けて自害した。
この燈明寺畷には、義貞を祭神とする藤島神社が建てられた。