後醍醐天皇は正慶2:元弘3年(1333)に鎌倉幕府を倒して自らの親政による建武政権を樹立したが、その運営はやがて破綻をきたし、建武2年(1335)になると、1月には九州の筑前・筑後国で、3月には南関東などでも旧北条勢力の叛乱が起こったが、6月には京都においても反後醍醐天皇の陰謀が露見した。その主謀者は権大納言・西園寺公宗である。
公宗は関東申次(幕府との連絡や交渉を司る朝廷の役職)の地位に在り、立場としては中立であるべきだったが、おば・寧子が後伏見院の妃(広義門院:光厳天皇の母)となっていた関係からか、後醍醐天皇の政敵であった持明院統に傾き、討幕を果たして建武政権を樹立させた後醍醐天皇からは冷遇されていた。『太平記』では、公宗は鎌倉幕府最後の執権であった北条高時の弟・北条泰家(時興)を匿い、北条得宗の一門に再び天下を取らせて自らは朝廷の執政になろうとして、後醍醐天皇を暗殺を企てたという。しかしこれは公宗の弟・西園寺公重の密告によって知られるところとなって公宗は召し取られたが、泰家は逃亡に成功している。
それより1ヶ月のちの7月半ば、北条高時の遺児・北条時行が信濃国で諏訪頼重と共に挙兵に及んだ。
信濃国は北条氏が守護として支配した経緯から北条旧臣も多く、とくに諏訪氏は北条氏譜代の家臣であったことから鎌倉の陥落後には時行を庇護しており、この時行は叔父にあたる泰家と呼応して東西で挙兵する手筈になっていたとされるが、公宗は捕えられ、泰家は消息を絶ったため、信濃国で単独で挙兵に踏み切るに至ったのである。
時行軍の蜂起は、保科・四宮氏らによる7月14日の守護所の急襲から始まった。この軍勢は数に勝る信濃守護・小笠原貞宗方の軍勢に撃退されるも、幾度となく蜂起しては抵抗を続け、戦線はしだいに北上していった。この抗戦は22日まで続けられ、保科・四宮らは敗戦を重ねたが、これは時行軍の陽動作戦であった。守護方の軍勢が北信に釘付けされている隙を衝いて、諏訪に潜伏していた時行が諏訪頼重以下の諏訪一族や滋野氏らと共に府中を急襲したのである。
信濃府中を制圧した時行らは守護軍の追撃に備えて滋野氏の軍勢を残し、北条氏の故地である相模国鎌倉を目指し、上野国を経て武蔵国に侵攻。この間に2万(『神明鏡』)とも5万(『太平記』)ともいわれる大軍に膨れ上がった時行軍は武蔵国の女影原・小手指原・府中において、鎌倉に在って後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて関東の政務を執っていた足利直義の軍勢をも破った。とくに武蔵府中での戦いでは、敗れた小山秀朝とその一族数百人が自害するという惨敗であった。
この事態に、ついには直義自身が鎌倉から出陣するが、勢いに乗る時行軍と24日に武蔵国井出沢で戦って大敗を喫すると、成良親王や足利義詮と共に鎌倉を退去して三河国の矢作宿まで敗走した。鎌倉に拘禁されていた護良親王が、直義の命を受けた家臣によって殺害されたのはこのときのことである。
時行が鎌倉を占拠したのは井出沢の合戦の翌日、7月25日のことであった。
三河国まで敗走した直義は、成良親王を京都に送還して兄・足利尊氏に援軍を要請した。
京でこの急報に接した尊氏は即座に時行軍追討のために征夷大将軍および諸国総追捕使への任官を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇はこれを認めず征東大将軍に任ずるのみに留め、8月1日付で成良親王を征夷大将軍に任じた。
しかし尊氏は許可を得ないまま8月2日に進発する。この出陣に際し、望んで尊氏に従って京を出た将士は数を知れないほどであったという。
三河国で直義と合流した尊氏は直ちに鎌倉奪還へ向けて動き出し、9日の遠江国橋本での合戦を皮切りに10日の遠江国小夜中山、14日の駿河国府、17日の相模国箱根、18日の相模川、19日の辻堂・片瀬原の各合戦で時行勢を破って進撃し、その19日のうちには鎌倉を奪回したのである。
敗れた時行軍の諏訪頼重や安保次郎左衛門ら主立った武将43人は、鎌倉の勝長寿院の大御堂で自害した。誰ともわからないように、皆が顔の皮を剥いでいたという。
しかしこの中に北条時行の姿はなかった。信濃国に向かって落ち延びていたのである。
この乱は、鎌倉時代の北条氏を『先代』、室町時代の足利氏を『当代』と見るとき、その中間の時行を『中先代』と見て中先代の乱、あるいは北条時行の乱と呼ばれる。北条時行は鎌倉を奪って北条氏の再興を果たすかに見えたが、その天下は1ヶ月にも満たないものであった。