小笠原貞宗(おがさわら・さだむね) 1292〜1347

小笠原宗長の子。正応5年(1292)(一説には永仁2年:1294)4月12日に生まれた。幼名は豊松丸。通称は彦五郎。右馬頭・治部大輔・信濃守。
元徳3:元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇が笠置山に拠って討幕の兵を挙げると、鎌倉幕府の命を受けて大仏貞直の軍に属して出陣した(元弘の変)。
正慶2:元弘3年(1333)閏2月に後醍醐天皇が配流先の隠岐から脱して再び討幕の号令を発すると、この鎮圧のために貞宗も再び幕府勢として出陣したが、後醍醐天皇に応じた足利尊氏から帰属の勧めを受けて討幕軍に転じ、同年5月に鎌倉幕府が滅ぼされて建武新政権が樹立すると、その功で建武2年(1335)には信濃守護に補任され、守護所を埴科郡船山に定めた。
同年7月、鎌倉幕府執権・北条高時の遺児である北条時行が諏訪氏らとともに信濃国で挙兵したが、鎮圧することができずに関東へと取り逃がし、時行らは10日ほどで鎌倉を制圧したが、8月に関東に下向した足利尊氏がこれを鎮圧している(中先代の乱)。
建武3年(1336)12月、天皇家が後醍醐天皇の興した南朝方(宮方)と足利尊氏が擁立した光明天皇の北朝方(武家方)に分裂したのちも貞宗は一貫して尊氏(北朝方)に与し、信濃国で南朝方勢力と戦った。とくに暦応3:興国元年(1340)に北条時行が信濃国伊那郡の大徳王寺城に拠って挙兵すると、これを攻め落とす功績を挙げている。
康永4:興国6年(1345)8月に京都で尊氏が建立した天龍寺の落慶供養が行われ、これには貞宗は参加していないが、子の政長らが供奉している。
貞和3:正平2年(1347)5月26日に没した。享年56。
臨済宗の禅僧・清拙生澄に帰依した。
この貞宗を小笠原流弓馬術の祖とする説は後世の付会とされるが、射芸騎乗に優れていたのは事実のようであり、著作に『犬追物次第』などがある。