小笠原政長(おがさわら・まさなが) 1319?〜1365?

信濃守護・小笠原貞宗の長男。元応元年(1319)7月11日に生まれる。幼名は豊松丸。通称は孫次郎。右馬頭・兵庫頭・遠江守・信濃守。信濃守護。
父より弓馬兵法の秘伝を受け、京都の武者所に仕えた。康永3:興国5年(1344)に所領を譲与され、翌康永4:興国6年(1345)8月の天龍寺落慶供養に参加し、先陣12名のうちに名が見える。
貞和3:正平2年(1347)5月、父の死により家督を継ぎ、信濃守護職を継承した。
足利尊氏直義兄弟の対立抗争(観応の擾乱)に際しては、貞和5:正平4年(1349)8月に尊氏の執事・高師直が京都で直義の襲撃を企てたときに従軍するなど、尊氏方であった。しかし翌年に直義が南朝方に帰順すると、信濃国の南朝方勢力であった諏訪頼継(直頼)との対立が激化。観応2:正平6年(1351)1月には国許で弟の小笠原政経らが諏訪氏の攻撃を受けて敗れると、政長も京都の邸宅を焼いて出京して直義方に投じた。その後、信濃守護も罷免されたようである。
しかしこれは一時的な方便だったようで、同年5月下旬頃には信濃国で諏訪勢と交戦し、10月には尊氏から「直義が関東へ向かうとの情報があるので進路を妨害するように」との指示を受け、この年の暮れには甲斐国で直義方勢力と戦うなど尊氏方に復帰しており、信濃守護として軍事指揮権も回復したことがうかがわれる。
家譜等では貞治4:正平20年(1365)3月21日に没したともされるが、文和4:正平10年(1355)には子の小笠原長基が信濃守護として活動しており、これ以前に死没あるいは引退したとも考えられる。
著作に『軍術兵用記』がある。