小笠原長基(おがさわら・ながもと) 1347〜1407

信濃守護・小笠原政長の嫡男。貞和3:正平2年(1347)1月27日に生まれる。兵庫助・弾正少弼・信濃守。信濃守護。
南朝方と北朝方の争乱では足利尊氏が奉じる北朝方に与し、文和2:正平8年(1353)には南朝方で信濃国伊那郡の仁科氏を城郭から追い落したことを尊氏から賞されたという。また文和4:正平10年(1355)8月には、諏訪氏や仁科氏といった信濃国の南朝方勢力を糾合した宗良親王(後醍醐天皇の皇子)と桔梗ヶ原で戦って勝利したとされる。当時、信濃は関東府の管轄下にあったが、長基は一定地域の軍事指揮権を保持していた。
しかしこの頃の長基は系図等の記載が正しければ10歳にも満たない少年ということになり、先述の事蹟については疑問も残るが、名目上の大将ということであろうか。
文和4:正平10年5月には信濃守護に補任されており、貞治4:正平20年(1365)7月までは在職したと推定されている。また、この年3月に父の政長が死去し、名実ともに小笠原氏の当主となった。
信濃守護職は貞治5:正平21年(1366)に犬懸上杉朝房に、ついで至徳元:元中元年(1384)までには斯波義種に移っているが、至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)4月には村上頼国・高梨朝高・島津国忠ら北信濃の国人領主と連合し、信濃守護代・二宮種氏を平芝の守護所に襲撃している。
永徳3:弘和3年(1383)、所領を子の小笠原長秀に譲る。長秀は応永6年(1399)に信濃守護に任じられ、翌年の信濃国入部に際して大塔合戦が勃発しているが、このときの長基の動静は不詳である。
明徳2年(1391)の明徳の乱に、幕府方として出陣している。
応永14年(1407)10月6日に没した。享年61。