小笠原長秀(おがさわら・ながひで) 1366?〜1424

信濃守護・小笠原長基の二男。貞治5:正平21年(1366)9月18日に生まれる。幼名は豊若丸。通称は又次郎。兵庫助・修理大夫・信濃守。信濃守護。
永徳3:弘和3年(1383)、所領を相続して小笠原氏の家督となる。
応永6年(1399)10月に信濃守護に補任されて翌応永7年(1400)8月に信濃国善光寺に入ったが、同国の国人領主・村上満信の所領を侵したため、翌月には村上氏・高梨氏・海野氏・大文字一揆らの叛乱を招き(大塔合戦)、これに敗れて信濃国を逐われ、同年10月には京都に逃げ帰った。このため、応永8年(1401)に信濃守護職を更迭された。
応永12年(1405)11月に弟の政康に所領を譲り、応永19年(1412)には家を譲って出家。これにあたり、自分に実子ができたならその子に家を継がせ、子が生まれなかったら政康が相続し、その後は政康に実子がなければ舎兄・長将の嫡男である持長に継がせることを条件とした。
応永31年(1424)3月15日に59歳で没したが、一説には55歳ともいう。
なお、室町幕府3代将軍・足利義満の弓馬術師範として三議一統の撰者に列したという伝承は疑わしい。著作に『犬追物起源』がある。