小笠原政康(おがさわら・まさやす) 1376〜1442

信濃守護・小笠原長基の三男。母は武田信春の娘。小笠原長将・長秀の弟。右馬頭・治部大輔・大膳大夫・信濃守。信濃守護。
小笠原氏は政康の曽祖父にあたる小笠原貞宗から代々が信濃守護に任じられていたが、兄の長秀が統治の失敗から応永8年(1401)に更迭されて守護職を失うところとなり、この長秀から応永12年(1405)11月に所領を、応永19年(1412)2月には家督を譲られた。この家督継承については、長秀に実子が生まれなければ政康が相続し、その後は政康に実子がなければ長秀や政康の兄・長将の子である持長に継承させるという取り決めとなっていた。
応永23年(1416)11月に起こった上杉禅秀の乱に際しては幕府方に与し、出征はせずに信濃国の防備にあたったようだが、将軍・足利義持より戦功を賞されている。また、この乱で甲斐守護・武田信満は上杉禅秀に味方して敗死しており、信満の弟で逃走していた武田信元がその後継に決まると、幕府からの要請を受けて応永25年(1418)2月に信元の甲斐入国を支援するなど幕府に忠勤を励み、応永32年(1425)12月、信濃守護に補任された。
その後も信濃守護として幕府に従い、永享10年(1438)8月には幕府や甲斐守護代・跡部氏の要請を受けて武田信重の帰国を支援し、その直後の永享の乱に際しては信濃国の兵を率いて鎌倉を攻略、また永享12年(1440)の結城合戦にも幕命を受けて参陣し、陣中奉行として戦功があった。
嘉吉2年(1442)8月9日に没した。享年67。
政康には宗康・光康の実子があったが、政康の死後、持長が長秀は自分に家督を譲与したと幕府に訴えたため、宗康と持長の間で内訌が起こることになる。