小笠原持長(おがさわら・もちなが) 1396〜1462

小笠原長将の子。幼名は豊千代丸。通称は又次郎。右馬助・民部大輔・大膳大夫・信濃守。
嘉吉2年(1442)8月に信濃守護で小笠原氏惣領の小笠原政康が没したのち、家督は政康の嫡男・宗康が継承したが、政康の兄で先代の惣領であった小笠原長秀より自分が家督を譲与されたとして幕府に訴えた。持長は畠山義就の異父同母弟とされ、義就の父で当時の管領であった畠山持国の威光を後ろ楯に得ていたと思われる。しかし持国は文安2年(1445)3月に管領職を辞しており、同年11月の幕府の見解では宗康が家督を継承するのが道理であるとしている。
翌文安3年(1446)3月に宗康は弟・光康に家督を譲り、自分の子である国松(のちの小笠原政秀)が成人したのちには家督を譲るように依頼しているが、持長はこの直後に信濃国水内郡漆田原にて宗康を討った。しかし幕府は宗康の跡目や信濃守護職を光康に安堵しており、ここに小笠原氏は府中の持長、伊那松尾の光康、伊那鈴岡の政秀とに分裂することになる。
畠山持国の後の管領は細川勝元であるが、宝徳元年(1449)9月に勝元が辞し、翌月に持国が管領に返り咲くと、その2年後の宝徳3年(1451)10月に持長が信濃守護となった。しかし享徳元年(1452)12月に細川勝元が管領に復帰すると、信濃守護職は再び光康に委ねられた。
寛正3年(1462)6月15日、67歳で没す。法号は高岳正隆竜光院。
なお、同時期の京都小笠原氏に幕府弓馬師範の持長がいるが、同名異人である。