甲斐守護・武田信満の嫡男。母は小山田信澄の娘。初名は三郎。刑部大輔。
応永23年(1416)10月の上杉禅秀の乱に際しては父の信満や弟の武田信長が上杉禅秀方に与したが、翌年1月に禅秀が幕府軍に敗れて自害、続いて領国の甲斐国に逃れた信満も2月に敗死すると高野山に逃れて出家し、光増坊道成と号した。
信満敗死後の甲斐守護には同じく高野山に逃れていた叔父・武田信元が補任されて応永25年(1418)2月に帰国していたが、応永28年(1421)には信重も幕府より甲斐国への帰国を促されている。これは信元の死没あるいは没落によるものと思われるが、このときは帰国を拒否している。
応永30年(1423)6月には室町幕府4代将軍・足利義持より守護に補任されている兆候が見られるが、鎌倉府がこれを承認しなかったため入国は果たせず、応永32年(1425)閏6月にも「逸見・穴山等打出」として帰国を拒否し、在京のままでの守護就任を望んでいる。
この頃の甲斐国では武田信長の子で信元の嗣子となっていた武田伊豆千代丸が実父の信長や甲斐守護代の跡部氏らの助力を得て、逸見有直をはじめとする反武田勢力と抗争して優勢だったようであるが、逸見氏の後ろ盾となっていた鎌倉公方・足利持氏の介入によって戦況は後退し、応永33年(1426)8月には信長が鎌倉府に降伏、さらには台頭してきた跡部氏が専横を揮うなかで伊豆千代丸も永享5年(1433)には史料から名を消す。
事情は定かではないが跡部氏が信重の帰国を要請したこともあって永享10年(1438)8月、信濃守護・小笠原政康の支援を得て帰国を果たした。
永享11年(1439)初頭の足利持氏討伐(永享の乱)には6代将軍・足利義教から要請を受けながらも出陣しなかったようであるが、永享12年(1440)の結城合戦には参陣して、結城七郎(結城氏朝か)を討ち取る武功を挙げたという。
宝徳2年(1450)11月24日に没した。一族の黒坂太郎を討つために出陣したところ、小山城主の穴山伊豆守がその隙を衝いて攻めたので、前後を挟撃されて自害したという。法名は成就院殿功岳道成大居士。