武田伊豆千代丸(たけだ・いずちよまる) ?〜1433?

上総国武田氏の祖となった武田信長の子。甲斐守護・武田信満の孫にあたる。
大叔父(父・信長の叔父)で甲斐守護の武田信元の嗣子となり、応永28年(1421)頃と推測される信元の没後には家系図や武田氏代々の感状・手継証文を相伝したというが、伊豆千代丸には甲斐守護職や武田氏の惣領職を継承した形跡がなく、歴代当主にも挙げられていない。
この頃の甲斐国武田氏は鎌倉公方・足利持氏を後ろ盾とする逸見有直との抗争を抱えており、応永30年(1423)6月には叔父(信長・信元の兄)の武田信重が不在のまま甲斐守護に補任されているが、反武田勢力のため未だ入国できず、伊豆千代丸は信元の代から甲斐守護代を務める跡部氏や都留郡の加藤入道梵玄、父の信長らより全面的に支援を得て逸見氏を追い落したものの、応永33年(1426)8月に信長が持氏に降伏したのちには跡部氏に専権を握られた。
のち、跡部駿河・上野父子が輪宝一揆衆を味方として叛くと伊豆千代丸は日一揆を組織して対抗したが戦況は芳しくなく、永享5年(1433)4月末には鎌倉府より出奔した信長と合流して荒川端で跡部勢と対戦したが、大敗を喫した。その後の史料に伊豆千代丸の名が見られないことから、このときに戦死したと目されている。