武田信元(たけだ・のぶもと) ?〜?

甲斐守護・武田信春の子。武田信満の弟。陸奥守。甲斐守護。
応永23年(1416)11月の上杉禅秀の乱に際しては兄の信満とともに前関東管領・上杉禅秀に加担し、翌年1月に禅秀が敗れると甲斐国に撤退したが、翌2月に信満が鎌倉公方・足利持氏より差し下された軍勢に敗れて自刃するに及んで甥・武田信重(信満の長男)とともに高野山に逃れて出家し、空山と号した。
この後、将軍・足利義持の命を受けて還俗し、甲斐守護・陸奥守に任じられたが、信満の討死や信元・信重らの逐電のために守護一族が不在となった甲斐国では逸見氏ら国人領主が台頭しており、これら反守護勢力より甲斐入国を拒まれたが、信濃守護・小笠原政康の助力を得て応永25年(1418)2月に入国を果たした。同年10月頃には反抗勢力と交戦しているようであるが、この頃には小笠原氏支族の跡部氏を甲斐守護代として迎えている。
生没年は不詳であるが、応永28年(1421)には甥の信重が甲斐守護として帰国するように幕府より促されていることから、これ以前に没したとみられる。
子に彦次郎があったが早世しており、甥である武田信長(信満の二男)の子・伊豆千代丸が嗣子となったが、甲斐守護代の跡部氏に領国の実権を握られたといい、甲斐守護職や武田氏惣領を継承した形跡が見られない。