足利義満(あしかが・よしみつ) 1358〜1408

室町幕府第3代将軍。在位期間は応安元:正平23年(1368)〜応永元年(1394)。父は2代将軍・足利義詮、母は岩清水八幡宮社務善法寺通清の女・紀良子。
延文3:正平13年(1358)8月22日に政所執事・伊勢貞継の邸で生まれた。幼名を春王丸。
康安元:正平16年(1361)12月、南朝軍の入京により父・義詮が北朝の後光厳天皇を奉じて近江国に奔ったとき、義満は建仁寺に匿われ、ついで赤松則祐を頼って播磨国の白旗城に逃れた。翌年1月、赤松氏の家臣らが幼い義満を慰めるため松囃子を演じたのが機縁となって、毎年正月に将軍が赤松邸で松囃子を観るのが佳例となったという。
やがて帰京し、貞治5:正平21年(1366)12月7日に後光厳天皇から名を義満と賜り、従五位下に叙せられた。
翌年11月25日、病に罹った義詮から家督を譲られ、正五位下・左馬頭に任ぜられる。ついで応安元:正平23年4月15日に11歳で元服し、同年12月30日に征夷大将軍に就任。15歳となった応安5:文中元年(1372)11月22日、花押を定めて判始の式を行う。それまでは義詮の指名した細川頼之が管領として幕政を主宰していたが、これより義満は自らの花押を据えた文書を発給して政務を執ることになる。
応安6:文中2年(1373)11月25日、参議・左近衛中将に昇って公卿に列し、永和元:天授元年(1375)11月に従三位に上る。この頃、日野時光の女・業子を正室に迎える。
永和4:天授4年(1378)3月に権大納言・右近衛大将となり、この頃に居所を三条坊門第から北小路室町に造営された新第(室町第)へと移した。室町幕府の名はこの室町第に由来するものであり、この室町第は諸家愛蔵の名木が集められたことから『花の御所』と呼ばれた。
同年12月には従二位に叙されて右馬寮御監を兼ね、その初政は順調であったが、内憂がないわけでもなかった。祖父で初代将軍の尊氏の興した幕府の機構は次代の義詮によって固められたうえで義満に引き継がれたが、未だ強い発言力を持つ幕閣内の有力大名間での反目が生じ、とくに管領として幕政の枢要を担った細川頼之の執政に諸将の反感が募るのをみた義満は康暦元:天授5年(1379)閏4月、頼之を更迭して後任に斯波義将を据えた(康暦の政変)。一説には頼之との間に確執が生じていた諸将が義満に頼之の解任を強要したとも伝える。
また時をほぼ同じくして鎌倉公方・足利氏満の叛心も露見しているが、これは関東管領・上杉憲春の諌死によって氏満が思い留まったため、事なきを得ている。
康暦2:天授6年(1380)1月には従一位に昇り、翌永徳元:弘和元年(1381)3月、後円融天皇を室町第に迎え、同年6月には父祖の極官を超えて内大臣に任ぜられた。義満はこれを機に従来の武家様の花押のほかにも「義」の字を基とした公家様の花押を作って両者を併用するようになったが、康応年間(1389〜1390)頃には武家様の花押を廃して公家様の花押のみを用いるようになっている。
永徳2:弘和2年(1382)1月に左大臣、4月には後円融天皇が譲位して院政を行うことになると院の別当に補され、翌永徳3:弘和3年(1383)1月に久我家に代わって源氏の長者となって公家・武家の実権を完全に握り、6月には武家にして初めて准三宮宣下を受けた。
この後、義満は各地へ出遊するようになった。至徳2:元中2年(1385)8月に春日社に参詣したのを皮切りに、翌年10月には丹後国の天橋立、嘉慶2:元中5年(1388)9月には駿河国に下って富士で遊覧を行い、翌康応元:元中6年3月(1389)には安芸国の厳島に詣でている。また同年9月には高野山に、明徳2:元中8年(1391)9月には再び春日社に参詣しているが、これらは単なる行楽ではなく、政治目的を持っての旅行であった。南都や高野山への参詣は衆徒の懐柔と南朝への示威のためであり、天橋立遊覧は山名一族の離間を図ってその勢力を削減するために丹後守護・山名満幸に接近することが目的であったとされ、実際、のちに山名一族は分裂抗争の果てに領国と勢威を大幅に減衰させることになる(明徳の乱)。また富士遊覧は、未だ幕府への叛意を持っていた足利氏満を牽制するためであった。厳島参詣も九州・中国地方西部で勢を張る今川了俊(貞世)大内義弘に威圧を加えるのが目的だったと目されている。
応永元年(1394)12月17日に将軍職を同日に元服したばかりの嫡子・義持に譲り、同月25日には太政大臣に任ぜられて公家の極官に昇ったが応永2年(1395)6月3日にはこれを辞し、同月20日に38歳で出家した。法名は道有、ついで道義と改め、天山と号した。このとき管領の斯波義将や左大臣の花山院通定をはじめ、多くの武家や公家が義満に従って出家している。この出家は世俗との縁を断って仏門に入るためではなく、世俗を離れて武家や公家をも超越した存在として君臨するためのもので、その先例を平清盛に求めたものと見られている。義満は同年9月に東大寺に受戒し、ついで応永3年(1396)9月には比叡山延暦寺に受戒した。そのいずれも法皇受戒の儀式に倣ってのものであったという。
そして応永6年(1399)12月には大内義弘を和泉国の堺に討ち(応永の乱)、いよいよその権勢を不動のものとした。
応永8年(1401)5月、義満は明国に使節を派遣して、元寇以来絶えていた国交の再開を求めた。これは明国の冊封を受けることで日本の主権者であることの保障とともに、貿易によってもたらされる莫大な利益をも得ようとしたためであったと見られている。
この使節は明国からの使者を伴って翌応永9年(1402)8月に帰国し、携えられた明国の建文帝からの国書は義満を『日本国王源道義』と見なし、日本を明国の属国として朝貢を認めるものであった。応永10年(1403)2月、義満は帰国する明使に同行させた使節に「日本国王臣源表す、臣聞く」に始まる上表文を託し、正式に明の冊封を受けた。その結果、明国の永楽帝(燕王)がその翌年に義満の賀表を嘉する旨を記した国書とともに冠服および金の『日本国王之印』を贈り、勘合符を出して十年一貢と定めたことにより対明勘合貿易が開始されるが、応永への改元に際して義満が明国の洪武帝の例にならって年号に洪の字を用いようとしたこと、明国に対して取った臣従の態度には当時から批判があり、来日した明使の待遇についても側近の管領・斯波義将や三宝院満済などから丁重の度が過ぎるとして批判されている。
義満ははじめ日野業子を室としたが、応永12年(1405)7月に業子が病死したあと、日野資康の女で業子の姪にあたる康子を室に迎えた。翌年12月、後小松天皇の母・通陽門院が没すると、義満の意向で康子は母国に准ぜられ、准三后の宣下を受けて北山院と称し、翌年3月には入内の式を遂げた。
応永15年(1408)3月に後小松天皇の北山第行幸を迎えるも、5月6日に北山第で急死した。享年51。法号は鹿苑院天山道義。
死後ただちに朝廷から太上法皇の尊号宣下があったが、幕府の長老斯波義将の意見で義持から辞退を申し出て撤回された。
後嗣には後小松天皇の北山第行幸に同席を許されて異例の累進を遂げた義嗣が有力視されていたが、これも斯波義将のはからいで足利氏の家督は義持の嗣ぐところとなった。正室の康子には実子がなかったらしく、義持とそのあとを継いだ弟・義教の生母は側室・藤原慶子(三宝院坊官安芸方眼の女)で、他に慶子の妹の量子や加賀局(実相院坊官長快法印の女)・春日局(摂津能秀の女)・藤原誠子・高橋殿(西御所)・池尻殿など多くの側室がいたことが知られている。男子には義持・義嗣・義教のほか、禅僧友山清師・虎山永隆・仁和寺法尊・大覚寺義昭・梶井義承らがあり、女子に大慈院聖久・同聖紹・入江殿聖仙・法華寺尊順・光照寺尊久および宝鏡寺主・摂取院主などがいる。
三管領・四職をはじめ幕府の職制が整備され、五山十刹の制が成ったのも義満の時代であった。
義満はまた公家文化の愛好者でもあった。義満は当代一の文化人と称せられた二条良基から宮廷内における出処進退や和歌・連歌・管絃・鳥合・花合などに至る公卿の教養の手ほどきを受けているが、義満の公家文化愛好を反映して、朝廷の諸儀式をはじめ、和歌・連歌・舞楽・蹴鞠の会が盛んに催され、猿楽などもしばしば興行された。
また義満の禅宗信仰や中国文化の尊重から宋元名画の蒐集が盛んに行われ、五山文学が最盛期を迎え、さらには内裏をはじめ相国寺や室町第、金閣や鹿苑寺の名で著名な北山第が造営されるなど、義満を中心として文化的にも見るべきものが多く、この時期の文化を北山第に因んで北山文化と称している。