細川頼之(ほそかわ・よりゆき) 1329〜1392

細川頼春の子。母は剃髪して里沢禅尼と号した女性。通称は弥九郎。右馬助・右馬頭・武蔵守。法名は常久。
観応の擾乱の勃発以来より足利尊氏党に属し、主として阿波国の戦線に在陣して小笠原頼清ら阿波国南朝軍との戦いに功績を挙げているが、観応3(=文和元):正平7年(1352)3月の京都八幡の男山合戦にも参陣している。この間の同年閏2月、父・頼春の討死により阿波守護職を継いだ。
文和3:正平9年(1354)10月には伊予国の足利直冬党を征討するべく伊予国へと出陣しており、このときに幕府より伊予守護に任じられたと思われる。
文和5(=延文元):正平11年(1356)7月頃に足利直冬追討のため安芸国に向けて出陣。これに臨んで備前・備中・備後・安芸の4ヶ国を管轄したことから「中国管領」などと称される。その傍らで延文4:正平14年(1359)に讃岐守護と土佐守護職をも手中に収めて四国全域の守護となり、貞治元:正平17年(1362)7月、南朝方となっていた従兄弟で前執事の細川清氏を讃岐国にて討ち取る(白峰の合戦)。この清氏との抗争において伊予国の河野通盛・通朝父子が自分に援兵を送らなかったとして、貞治3:正平19年(1364)に通朝を攻めて滅ぼし、翌年には通朝の子・河野通堯とも抗争した。
貞治6:正平22年(1367)11月25日、死期を悟った2代将軍・足利義詮の遺託により幼少の3代将軍・足利義満の補佐役として執事(のちの管領)に任じられた。これと時期を同じくして伊勢守護にも補任されている。
貞治7(=応安元):正平23年(1368)2月に内法三箇条を作成して将軍近臣の綱紀の向上を図るなど、種々の政策を用いて将軍の権威と幕府権力の強化に努め、これが奏功すると頼之の権勢も相対的に高まることとなったが、この強権が諸将の反発を招くこととなり、土岐頼康・京極(佐々木)高秀・斯波義将らと不和になって康暦元:天授5年(1379)4月に更迭され、入道して常久と号し讃岐国に下った。
しかし康応元:元中6年(1389)3月、義満の厳島参詣に途中からしばらく随行し、このときに赦免を得たと見られる。明徳2:元中8年(1391)に上洛し、4月に管領となった養子(弟)の細川頼元を後見して幕府に復帰し、参与した明徳の乱の鎮定を見届けて明徳3:元中9年(1392)3月2日に64歳で没した。
頼之の在世中に細川一族の分国は四国を中心に畿内・山陽にまたがる8ヶ国(阿波・讃岐・伊予・土佐・伊勢・和泉・備中・備後)となり、管領細川氏の権勢の基礎が確立した。