細川清氏(ほそかわ・きようじ) ?〜1362

細川和氏の子。通称は弥八。初名は元氏。室町幕府執事。左近将監・伊予守・相模守。
観応の擾乱に際しては一貫して足利尊氏方として活動し、戦傷を負うなどしばしば勇戦し、観応3(=文和元):正平7年(1352)5月に伊賀守護に補任され、文和3:正平9年(1354)9月には若狭守護に転じ、この頃に引付頭人にも任じられている。
文和4:正平10年(1355)に南朝勢力に制圧された京都を奪還するにあたっては、味方の先頭に立って足利直冬が本陣としていた東寺へと攻めかかり、戦傷を負いながらも奮戦して直冬を駆逐するという武功を挙げている。
その後も南朝軍との戦いに軍功があり、尊氏没後の延文3:正平13年(1358)10月、2代将軍となった足利義詮によって執事(のちの管領)に起用された。翌年12月には河内国南朝軍追討の総大将として進発し、延文5:正平15年(1360)5月、楠木正儀の本拠・赤坂城を陥れている。
しかし同年7月、有力守護の仁木義長を追放し、ついで将軍の所務沙汰(所領関係の訴訟)親裁権を犯すなど、軍功を誇って他氏の排斥や越権行為などの横暴な振舞いが多かったため、幕府の宿老・京極高氏(佐々木導誉)らに讒言されて康安元:正平16年(1361)9月に追討の対象となり、守護領国の若狭国に奔るが、被官の裏切りに遭って支えきれず、没落して南朝に帰順した。
同年末には南朝軍の四条隆俊・石塔頼房・楠木正儀らと共に進撃して京都を一時的に占拠したが、まもなく幕府軍の逆襲を受けて逃れ、翌貞治元:正平17年(1362)には阿波、ついで讃岐国に赴いて再挙を図ったが、細川頼之に迎撃されて7月24日に討死した(白峰の合戦)。