細川和氏(ほそかわ・かずうじ) 1296〜1342

細川公頼の子として三河国細川郷に生まれる。寛正本『梅松論』では名の読みを「ともうじ」としている。通称は弥八。細川頼春・師氏の兄。
元弘の乱以来、主家の足利尊氏を助けて活動し、建武政権の樹立後には阿波守に任じられた。
建武2年(1335)の中先代の乱に際しては弟の細川頼春とともに尊氏に従軍して戦功を挙げ、とくに8月14日の駿河国府の合戦において高名を挙げた者として和氏の名が見える。その後も関東に在って尊氏に近侍し、同年10月には尊氏の使者として上京して後醍醐天皇新田義貞誅伐の奏上を捧げている。また、同年11月に義貞の率いる官軍(後醍醐天皇軍)が鎌倉に差し向けられると、上杉憲房京極高氏(佐々木導誉)とともに、官軍を迎え撃つように直義に進言している。
官軍を撃退した足利軍はそのまま追撃して京都に進攻し、一時は京都を占拠するも、まもなく北畠顕家らの軍勢に敗れて西走することになるが(建武3年の京都攻防戦)、これに際して建武3年(1336)2月、尊氏の命を受けて一族とともに四国に渡って再挙に備えた。とくに和氏と細川顕氏は恩賞を宛行う権限を委ねられており、その信任の厚さが窺える。
同年11月、尊氏が建武式目を制定して幕府機構を整えた際に引付頭人に任じられ、所務沙汰の審理に従事した。ついで侍所頭人となる。
のちに阿波国に隠退して竹渓と号し、暦応2:延元4年(1339)に阿波国秋月荘に補陀寺を建立し、夢窓疎石を招いて開山とした。康永元:興国4年(1342)9月23日、享年47で没す。