上杉憲房(うえすぎ・のりふさ) ?〜1336

上杉頼重の子。三男か。上杉氏祖・上杉重房の孫にあたる。兵庫頭・永嘉門院蔵人。杉谷殿とも称された。
足利尊氏直義兄弟の母である清子の兄。
尊氏に仕えて信頼が厚く、尊氏が正慶2:元弘3年(1333)4月に鎌倉幕府の命に叛いて後醍醐天皇に与することに意を決したのは、この憲房の勧めによるという。尊氏らが討幕を成すと、その功によって同年12月に伊豆国奈古屋郷の地頭職を与えられ、建武政権下では同年9月に設置された雑訴決断所の三番方の奉行に任じられ、建武元年(1334)8月頃に雑訴決断所が四番制から八番制に再編された際、引き続いて二番方に配置されている。
尊氏が建武2年(1335)の中先代の乱を鎮圧したのちに関東に留まって後醍醐天皇から離反した際にも従い、天皇からの信任が厚い新田義貞の本拠である上野国の守護に任じられて、新田勢を抑える役割を果たした。
翌建武3年(1336)1月には敗走する新田軍を追撃する尊氏に従軍して入京したが、同月27日に尊氏軍を追撃してきた北畠顕家や新田義貞らの軍勢と京都の四条河原で戦い、一族とともに奮戦。苦戦した尊氏の身代わりとなって討死を遂げたとされるが、上京の祇陀林地蔵堂に逃れたのち自刃したともいう。法名は果証院雪谿道欽。
子の憲顕・憲藤はそれぞれ山内・犬懸上杉氏の祖となり、この両者の系統からはのちに多くの関東管領や武蔵・上野・越後守護が輩出された。