足利氏満(あしかが・うじみつ) 1359〜1398

第2代の鎌倉公方。足利基氏の嫡男。母は畠山国清の妹。幼名は金王丸。
父・基氏の帰依した禅僧・義堂周信(別号:空華道人)に幼時より師事する。
貞治元:正平17年(1362)8月、基氏が畠山国清追討に出陣したのちは、その在所であった武蔵国入間川に駐留。
貞治6:正平22年(1367)5月、基氏の死により9歳で鎌倉府の主となる。
翌応安元:正平23年(1368)2月、金王丸の名代として関東管領の上杉憲顕足利義満の将軍家相続を賀するために上京した機に武蔵国の河越直重や高坂氏重らを中心とする平一揆が自立を企て、これに呼応して上杉氏に反感を持つ下野国の宇都宮氏綱が挙兵、高・三浦一族も鎌倉を出奔するという事態となるが、4月に帰還した憲顕に奉じられて6月には平一揆を鎮圧、9月には宇都宮氏も降した(武蔵国平一揆の乱)。
応安2:正平24年(1369)11月21日に元服し、3代将軍となった義満より一字を与えられて氏満と名乗る。応安6:文中2年(1373)11月に従五位下・左馬頭となり、12月25日に判始を行った。
康暦元:天授5年(1379)、京都において管領・細川頼之と前管領・斯波義将の反目が顕著となり、斯波派の大名である土岐頼康の討伐令が下されるとこれに応じる形で兵を出しているが、その実は斯波派と結託して義満を討ち、将軍位を襲う野望のために出兵したともされている。しかし上杉憲春の切腹しての諌止(あるいは引責死)によって思い留まり、自筆の弁明書をしたためたことで5月には義満と一応の和睦が成っている。
康暦2:天授6年(1380)2月、従四位下・左兵衛督となる。
同年5月、かねてから命令の遵行を怠りがちであった小山義政が氏満の制止を聞かずに宇都宮基綱を攻めて討った(裳原の合戦)ため、氏満は関東8ヶ国に小山氏追討を命じるとともに自らも出陣し、上杉憲方上杉朝宗、木戸法季、武蔵国の白旗一揆をも動員して小山氏の祇園城を攻めた(小山義政の乱)。
永徳2:弘和2年(1382)4月に義政を討つが、義政の子・小山若犬丸は潜伏と蜂起を繰り返し、鎌倉府に反感を持つ常陸国の小田氏などと連携あるいは便乗して抵抗した(小山若犬丸の乱)。若犬丸の抵抗は応永3年(1396)まで続き、小山氏の追討は氏満一代の事業となった。
また、この小山若犬丸と南陸奥勢力の連合した抵抗が、明徳2年(1391)2月頃に陸奥・出羽国が鎌倉府管国へ併合されることにつながったと見られている。
応永5年(1398)の秋頃より体調を崩しがちになり、11月4日に没した。享年40。鎌倉の永安寺(現在は廃寺)に葬られ、法名は永安寺璧山道全。
この氏満在世期に鎌倉府内の組織化や管轄国の安定化が進められ、室町幕府における地方機関としての存在感を確立させた功績は大きい。