武蔵国入間郡河越の領主・河越直重は、観応2:正平6年(1351)末の薩埵山の合戦、その翌年の武蔵野合戦においては河越・高坂・江戸・豊島らからなる武蔵国の平一揆(平姓秩父氏を祖とする領主の連合体)を率いて足利尊氏を援け、それらの功で文和2:正平8年(1353)7月に相模守護に任じられた。
尊氏は同月末に上洛するにあたって、上野・越後国方面の南朝勢力や足利直義党の残党を警戒するために子の足利基氏を武蔵国入間川に駐留させているが、ここは河越氏の勢力圏であり、河越氏の信頼が厚かったことが窺える。
基氏の補佐役として執事に任じられた畠山国清もまた秩父氏の系譜に連なる。国清は父方の血脈からみれば足利義兼の子・義純の後裔で源姓畠山氏と称されるが、義純は畠山重忠(平姓畠山氏。平姓秩父氏の後裔)の後家を妻としてその遺領と家名を継承し、それが国清に受け継がれていたのである。その国清は入間川に近接する武蔵国男衾郡を領していた。基氏は康安2(=貞治元):正平17年(1362)まで入間川に在陣したことから「入間川殿」「入間川御所」などとも称されたが、平一揆の入間郡ならびに畠山氏の男衾郡を勢力基盤とし、彼らに支えられて在陣したということができるのである。当然、直重の勢威や発言力なども強かったに違いない。
しかし、圧政を布いたとして国清が康安元:正平16年(1361)11月に追放され、間もなく伊豆国で反乱を企てるも、翌年8月に基氏自ら討伐のために出陣すると、国清は9月に鎮圧されて逃亡した。
この畠山国清の失脚によって河越直重は名実ともに平一揆の盟主となったが、支えるべき主は入間川陣には戻らず、鎌倉に留まっていた。そして翌年の貞治2:正平18年(1363)3月、基氏は執事として上杉憲顕を鎌倉に招いたのである。
憲顕は、かつての薩埵山の合戦・武蔵野合戦で直義党の重鎮であり、直重にとっては敵方であった。これと前後して直重は相模守護を解任され(終見が同年2月、後任守護の三浦高通の活動の初見が翌年12月だから、憲顕の執事就任後であろう)、宇都宮氏綱が所持していた上野・越後守護職が憲顕に与えられると、氏綱、そしてその重臣で守護代だった芳賀高名(禅可)が反発し、8月には鎌倉に向かう憲顕を襲撃しようとして兵を挙げたが、これを知った基氏は憲顕を支援するために自ら出陣して芳賀勢を破り、氏綱は「芳賀が独断で企てたこと」として降伏した(苦林野の合戦)。
基氏に重用された上杉氏はその後も鎌倉府内において勢威を強め、貞治5:正平21年(1366)中には上杉能憲(憲顕の子)が武蔵守護、犬懸上杉朝房(憲顕の甥)が同年10月までには信濃守護に任じられている。
尊氏に味方した自分たちが冷遇されるようになり、敵対していた憲顕らが栄達していくのを目の当たりにした直重ら平一揆の不満は募っていったことであろう。
貞治6:正平22年(1367)4月に基氏が死去し、嫡子の足利氏満が新たな鎌倉公方となった。そして同年12月に京都で将軍の足利義詮も没して足利義満が継ぐと、翌貞治7(=応安元):正平23年(1368)1月に憲顕は氏満の名代として上洛し、2月8日に義満に謁見している。
この憲顕不在を好機としてか、2月になると直重ら平一揆が河越館に拠って蜂起した。『七巻冊子』『南方紀伝』に「去ぬる応安元年二月、東国宇都宮氏綱、並びに平一揆等、南方の御方に参り兵を揚げ蜂起す」とあるように、この挙兵には宇都宮氏綱も加担していた。これを受けて鎌倉から鎮圧の軍勢が派遣されるとともに、京都の憲顕のもとにも情勢を知らせる使者が派遣されたであろう、憲顕は3月下旬に出京して4月上旬に上野国に入っている。
憲顕の鎌倉からの出陣は6月になってからのことで、上杉朝房とともに足利氏満を奉じて河越へ向かった。途中、武蔵国比企郡の岩殿山で平一揆の軍勢を破って河越へと迫り、17日の総攻撃で河越館を陥落させた。
この戦後の処置において、平一揆とこれに与した者たちは存続を許されたものの、薩埵山の合戦の勲功で新恩を得た者は本領以外全て没収、恩賞のなかった者は本領の3分の1を没収、という厳罰を科されることになり、河越氏・高坂氏らは衰亡することとなった。
その後、上杉勢は下野国に進み、反乱に与同した宇都宮氏を攻撃している。