下野国宇都宮氏の重臣。芳賀高久の子。越後守護代。入道して禅可と称す。妻は高師直の一族・南宗継の姉。
元弘の乱に際し、主家の宇都宮公綱に従って畿内へ出征し、楠木正成らと戦う。
建武2年(1335)7月の中先代の乱の鎮定後に足利尊氏が建武政権から離脱してこれに抗すると、宇都宮公綱は建武政権の北畠顕家に属したが、高吊は妻の縁もあってのことか尊氏方に与し、建武4:延元2年(1337)に北畠顕家が陸奥国から畿内へ向けて進撃する(北畠顕家の征西)際の同年12月の利根川の合戦に臨んで、公綱の子・加賀寿丸(のちの宇都宮氏綱)を擁して宇都宮城に籠り、顕家に抗戦した。支えきれずに降ったのちは城から出て尊氏方に参陣し、顕家勢を追撃する上杉憲顕・桃井直常・高重直らの軍勢に加わっている。
観応2年(1351)、観応の擾乱における薩埵山の合戦においても尊氏に味方し、後詰を果たして尊氏の勝利に貢献した。
文和元:正平7年(1352)に氏綱が越後・上野の守護となると同年11月に両国の守護代となり、子の高貞・高家を越後国に派遣し、前越後守護の上杉勢にあたらせている。
延文4:正平14年(1359)、関東公方(鎌倉公方)の執事・畠山国清が畿内の南朝軍を討つために上洛した際、高貞とともにこれに従軍している。
貞治元:正平17年(1362)、上杉憲顕が越後守護に再任されて宇都宮氏綱が罷免されると、越後国で抗戦したが、翌貞治2:正平18年(1363)4月頃に鎮圧されたようである。また同年8月には越後国から鎌倉に向かう憲顕を迎撃するため高貞・高家を上野国板鼻に在陣させたが、憲顕の庇護者であった関東公方・足利基氏が宇都宮氏攻撃に踏み切ったことを知ると、高貞らを武蔵国苦林でこれにあたらせたが、敗れている(苦林野の合戦)。この挙兵は高吊の独断とされており、こののちに氏綱が基氏に降伏した際にはそう述べて赦免されている。
その後の高吊の消息は上明となるが、応安5:文中元年(1372)に82歳で死去したと伝わる。