宇都宮貞綱の子。母は鎌倉幕府6代執権・北条長時の娘。初名は高綱。正四位下・左馬権頭・兵部少輔・左近衛府少将。妻は千葉宗胤の娘。
二男であったが、庶兄の高貞は母が芳賀高直の娘という所縁から芳賀氏に入嗣しており、父・貞綱が正和5年(1316)に没したことを受け、公綱が家督を継いで宇都宮氏9代の当主となる。
元弘の乱に際し、笠置山に入った後醍醐天皇を討つため、北条高時の命により軍勢を率いて上洛。正慶2:元弘3年(1333)1月には摂津国四天王寺で楠木正成と戦い、その後、正成の拠る河内国千早城を攻囲するが、5月六波羅探題の滅亡後は奈良に退いて般若寺に滞陣していた際、後醍醐天皇の綸旨を受けて朝廷側に属した。
建武政権の成立後、雑訴決断所の一番局の奉行に補任。
建武2年(1335)、中先代の乱鎮定後に足利尊氏が鎌倉に留まって建武政権と対立したとき、公綱はこれを討伐する新田義貞の軍勢に属して東下して箱根で尊氏軍と戦ったが敗れ(箱根・竹ノ下の合戦)、翌年1月に敗走する新田軍を追撃してきた足利軍との京都攻防戦に敗れて尊氏に降った。しかしその直後、後醍醐天皇の命を受けて上洛した北畠顕家らの軍勢が尊氏を京都から逐い、尊氏が九州へ向かうと再び朝廷に帰属した。この変転ぶりを『太平記』は「山雀(やまがら)が、さのみもどりをうつのみや、都に入りて出もやらぬは」と落首に詠んでいる。
同年11月の室町幕府の成立後も後醍醐天皇の開いた南朝方に属して正四位下・左少将に叙任され、その後に帰国していたようであり、延元2:建武4年(1337)8月頃には陸奥国伊達郡の霊山城から発向して2度目の征西戦に臨む北畠顕家の軍勢を宇都宮城に迎え、同年12月の利根川の合戦には北畠軍(南朝方)として参陣しているが、子・氏綱は足利義詮方(北朝方)となっている。
利根川の合戦の後に氏綱らを降伏させ、北畠顕家に属して鎌倉や美濃国を経て畿内へ進撃しているが、その後の動静は不詳である。
延文元:正平11年(1356)10月20日に没した。享年55。
和歌に秀で、その歌は『新続古今和歌集』に選ばれている。