下野守護で下野国小山祇園城主の小山義政は、康暦2:天授6年(1380)5月に政敵の宇都宮基綱を討ち取った(裳原の合戦)ため、鎌倉公方・足利氏満から追討を受けることとなり、降伏と再挙を繰り返したが、ついには永徳2:弘和2年(1382)4月に自害した(小山義政の乱)。
このとき義政の嫡男・小山若犬丸は落ち延びて行方をくらましたが、その4年後の至徳3:元中3年(1386)5月27日に突如として兵を挙げ、祇園城に立て籠もった。これを受けて下野守護代・木戸修理亮は鎮圧のために出陣したが、小山勢も迎撃に打って出て、6月18日に都賀郡の古江山付近で行われた合戦で木戸勢を撃退した。
この報を受けた足利氏満は自ら軍勢を率いて出陣、7月2日に下総国古河に陣を置いた。この後、鎌倉府軍は軍勢を進めて4日には都賀郡の赤塚、8日には小山の千太塚を経て10日に塔本で合戦となり、小山勢が撃退された。敗走した若犬丸はそのまま再び行方をくらまし、氏満も古河に陣を置いたまま探索を続けたが、若犬丸の逃亡先をつかむことができず、11月に鎌倉へと帰還した。
しかし翌至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)5月、若犬丸が常陸国の小田孝朝の館に在り、鎌倉府への反抗を企てているとの情報が鎌倉府に届けられた。これを受けて7月19日、鎌倉府は上杉朝宗を大将に任じて軍勢を発向させ、8月10日に着陣して小田氏の本城・小田城の攻撃を開始。小田城は間もなく陥落したが、小田勢は難台山城に移って抵抗を続けた。筑波山系に連なる難台山に築かれたこの城は険阻な要害に守られた堅城であったため、鎌倉府軍も攻めあぐねて兵糧攻めにしたが、真壁氏らが小田勢を支援して密かに兵糧の補給を続けたといい、鎌倉府軍が総攻撃の末にようやく攻め落としたのは嘉慶2:元中5年(1388)5月18日のことであった。
しかし、若犬丸は再び行方をくらましていたのである。
そして応永3年(1396)2月、若犬丸は3度目の挙兵に及ぶ。
史書では若犬丸は『小山城』に入ったとされているが、鎌倉府軍が小田氏への攻撃に出陣したのちの至徳4(=嘉慶元):元中4年8月に結城基光が小山祇園城の警固を命じられて入部あるいは代官を派遣し、その後30年近く同城を管轄したとされているため、若犬丸が祇園城に拠ったということは考え難く、小山と称された地域に所在するいずれかの城に拠ったものと思われる。
いずれにしても、若犬丸挙兵の報せを受けた足利氏満は2月28日に鎌倉を発ち、武蔵国の入間川・村岡・府中を経由して下総国古河に着陣した。史書では若犬丸勢が小山城から出撃して合戦となり、一時は鎌倉府軍が劣勢となったが援軍の勇戦によって勢いを盛り返し、若犬丸はそのまま奥州へ敗走したというが、若犬丸が鎌倉府軍に比肩するほどの兵力を擁していたとは考えにくく、小規模な襲撃戦を繰り返したというのが実情であろう。
『鎌倉大草紙』では、応永3年の春頃に若犬丸が奥州へ逃げ下ったとし、これを追撃するように5月下旬より鎌倉府軍が陸奥国田村荘司の田村氏討伐に進撃していることから、若犬丸が田村氏を頼って逃れたとも解されているが、若犬丸追討と田村氏討伐は別個の事案であり、直接的な関係はないと思われる。しかし、鎌倉府に抗する田村氏に若犬丸が便乗しようとしたという可能性は考えられる。
田村氏は6月中には鎌倉府に降り、氏満は7月1日には鎌倉へと帰陣した。一方の若犬丸はまたしても消息を絶つが、翌応永4年(1397)1月15日(一説には25日)、陸奥国会津の領主・蘆名氏に捕えられて自害したという。また、若犬丸の2人の遺児は、鎌倉に護送されたのちに六浦沖で処刑された。