結城基光(ゆうき・もとみつ) 1349?〜1430

下総国結城氏。結城直光の嫡男。通称は七郎。弾正少弼。妻は小山義政の姉。下総国結城城主。
永徳2:弘和2年(1382)4月、鎌倉公方・足利氏満に反抗を続けていた小山義政が敗死(小山義政の乱)したことによって下野国の雄族であった小山氏は実質的に滅亡したが、義政の子である小山若犬丸が未だ反抗を続けており、これを危惧した鎌倉府によって小山氏遺領の管理を命じられ、至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)8月に小山氏の本城であった下野国小山祇園城の警固を命じられて入部、あるいは代官を派遣しており、これと併せて下野守護に任じられたようである。
この間、おそらくは直光の活動が見られなくなる至徳2:元中2年(1385)10月以降に家督を譲られて結城氏当主となる。
嘉慶2:元中5年(1388)頃には小山氏の再興が認められてその名跡を二男の泰朝に継がせたが、この泰朝に活動の事績が見受けられないこと、応永20年(1413)頃に泰朝の後継の満泰に小山4郷を去り渡した(譲渡した)とみられることなどから、この頃まで実質的には基光が小山領を差配していたとみられる。
応永23年(1416)3月、嫡男の満広が嗣子なく没すると、その後継に泰朝の長男・氏朝を迎えて結城氏の名跡を継承させ、また、有力支族の山川氏に泰朝五男の氏義(のち基義)を入嗣させ、3人の孫の上位に君臨して3氏を統括した。この人事において、泰朝の長男(氏朝)に結城氏を、二男(満泰)に小山氏を継がせていることからも、「小山氏庶流の結城氏」からの脱却を意図していたことがうかがえる。
応永23年10月からの上杉禅秀の乱には足利持氏方に与し、応永29年(1422)には常陸国真壁郡の小栗城攻撃に功績を挙げるなど、鎌倉府に忠節を尽くした。
永享2年(1430)5月11日に死去。法名は高岳禅貴大禅定門。貞和5:正平4年(1349)生まれで享年82とされるが、『結城系図』では基光を結城直光の弟とし、元徳2年(1330)生まれ、享年101とする。