下野国小山氏第11代。小山氏政の子。通称は小四郎・五郎。左馬助・下野守。下野国小山祇園城主。
文和4:正平10年(1355)7月の父・氏政の死によって家督を継承し、貞治5:正平21年(1366)頃から康暦2:天授6年(1380)まで下野守護を務めた。貞治6:正平22年(1367)7月には宣旨によって下野守に任じられている。しかし永和3:天授3年(1377)には下野国宇都宮城主・宇都宮基綱も下野守護として活動していた徴証もあり、この時期の両名は下野国の半国守護であったと目されている。このため、宇都宮氏とは不穏な関係にあったと見られる。
康暦2:天授6年5月に宇都宮基綱と争ってこれを討ち取った(裳原の合戦)ため、翌月より鎌倉公方・足利氏満の追討を受け、8月末には祇園城を囲まれると降伏の意を示して許された。
しかしこれは偽りの降伏であり、再び挙兵して鎌倉方に抵抗したため再度の討伐を受け、永徳元:弘和元年(1381)12月に拠点の鷲城を攻略されると、隠居して子・若犬丸に家督を譲ることで再度の降伏を認められ、剃髪して永賢と号した。
だが翌永徳2:弘和2年(1382)年3月に至って三度叛き、祇園城に火を放って若犬丸とともに逃走。粕尾山中に築いた城々に拠って抵抗を続けたが、鎌倉府方の上杉憲方・上杉朝宗・木戸法季・白旗一揆らの軍勢に敗北し、同年4月13日に同地で自害した(小山義政の乱)。享年33とされる(『鎌倉九代記』等)。
若犬丸は落ち延びて行方をくらましたが、平安時代末期より下野国に勢力を揮った武家としての小山氏嫡流はここに断絶した。