赤松則祐(あかまつ・のりすけ) 1311〜1371

名を「そくゆう」とも読む。赤松則村(円心)の三男。赤松範資・貞範の弟。播磨・備前・摂津守護。
はじめ出家して比叡山延暦寺に入って帥律師妙善と称していたが、正慶2年(1333)1月頃、この比叡山で交誼を結んだ大塔宮(護良親王:後醍醐天皇の皇子)からの令旨を播磨国の父・則村に伝え、勧めて討幕の兵を起こさせた。
以来、父や兄弟とともに鎌倉幕府軍と戦って建武政権の樹立に功績を挙げたが、足利尊氏が建武2年(1335)に建武政権から離脱するとこれに与し、翌建武3年(1336)に尊氏が九州に落ち延びた際には一族とともに播磨国に在って新田義貞軍の追撃を凌いでいたが、同年3月には則村の意を受けて九州に赴き、戦況が不利であることを尊氏に伝えて早期の東上を促している。
妻は久我氏の娘であったが数年で亡くしたため、貞和5:正平4年(1349)頃に京極高氏(佐々木導誉)の娘を継室に迎えた。
貞和6(=観応元):正平5年(1350)1月に則村が没し、あとを継いだ兄・範資もその翌年に死去すると赤松氏惣領となり、播磨守護職を受け継いだ。
足利尊氏・直義兄弟の分裂抗争(観応の擾乱)に際しては尊氏方(幕府・北朝)に与し、観応2:正平6年(1351)7月頃に京極高氏とともに興良親王(護良親王の子:赤松宮:別称を陸良親王)を奉じて南朝方に寝返っているが、翌年3月頃には再び尊氏方に帰順していることから、この短期間の南朝への従属は経略とも目される。
また、この頃より本城的な機能を持つ城山城の築城を開始している。
文和3:正平9年(1354)10月に足利義詮足利直冬を討つとして京都から播磨国に出陣してくるとこれに属し、京都はこの後に南朝軍に制圧されているが、翌年3月の京都奪還戦に従軍した。
康安元:正平16年(1361)末に京都が南朝軍の攻撃を受けた際、一時的に足利義詮の子・春王丸(のちの足利義満)を白旗城に保護している。
貞治3:正平19年(1364)頃に備前守護職を与えられ、その間にも摂津守護を兼ねた時期もある。
応安3:建徳元年(1370)には幕府禅律方頭人(禅宗・律宗寺院等の訴訟を扱う機関の長官)となり、翌年には岩清水八幡宮の造営奉行に任じられた。
則祐は禅を好み、徹翁義亨に帰依し、播磨国に宝林寺を建立した。
応安4:建徳2年(1371)11月29日、京都西洞院の邸宅で病死した。享年61。法名は宝林寺殿自天妙善。