小山秀朝(おやま・ひでとも) ?〜1335

下野国小山氏第8代。第7代・小山貞朝の子。初名は高朝か。大夫判官・下野守。下野国小山城主。
元徳3:元弘元年(1331)8月、討幕の企てが露見した後醍醐天皇が山城・大和国境の笠置山に逃れて抵抗すると、この鎮圧のために足利尊氏や同族の結城朝祐・長沼秀行・白川(結城)宗広らとともに鎌倉幕府軍として畿内に出陣し、大仏貞直の軍に属して後醍醐天皇の笠置城や楠木正成の拠る河内国赤坂城を攻めた。
同年9月に後醍醐天皇が捕えられた後は帰国したが、元弘2年(1332)の冬に河内国千早城に再挙した楠木正成を討つため、再び出陣している。
しかし、のちには帰国したと目され、正慶2:元弘3年(1333)5月、討幕の檄に呼応して上野国で挙兵した新田義貞足利義詮に応じて鎌倉攻略戦に参陣し、鎌倉攻略に先立つ17日には千葉貞胤とともに武蔵国鶴見近辺で鎌倉幕府方の金沢(北条)貞将の軍勢を破っている。
小山氏は鎌倉時代より下野守護を世襲する家柄であったが、秀朝は鎌倉幕府滅亡後に樹立した建武政権下でも引き続いて下野守護に任じられ、下野国司も兼任している。
建武2年(1335)、北条高時の遺子・北条時行が叛乱を起こした際(中先代の乱)には武蔵国の府中にて迎え撃ったが敗れ、同年7月13日に一族や家臣の数百人とともに討死した。