鎌倉(かまくら)の戦い

上野国新田荘の地頭・新田氏は、祖を辿れば、のちに室町将軍家となる足利氏と同族であるが、鎌倉時代末期の新田荘は大部分が北条得宗家の被官や北条氏系の寺院の所領となっており、それに加えて代々の惣領が所領を子弟に相続させるにあたって分割相続を繰り返したことなどもあって零細化し、相伝された僅かな所領や地頭職を土豪や寺院に売却するなどしてようやく生計を立てているという状況であった。
正慶元:元弘2年(1332)の冬、かつて討幕を企てた後醍醐天皇に応じた河内国の土豪・楠木正成が河内国千早城(上赤坂城)に再挙兵した際、新田氏惣領・新田義貞は鎌倉幕府の命を受けて赤坂城攻撃軍の一員として出征したが、その陣中で討幕を命じる後醍醐天皇の綸旨(実は後醍醐天皇の皇子・護良親王の発した偽綸旨)を受けた。
このときに義貞が挙兵を決意したかは不明であるが、正慶2:元弘3年(1333)3月頃に病と偽って帰国している。この前月の閏2月には後醍醐天皇が配流地の隠岐からの脱出に成功して伯耆国の土豪・名和長年に迎えられており、さらにその前月には播磨国にて赤松則村(円心)が討幕の行動を起こすなど討幕派の意気は上がり、時勢も討幕に傾きつつあった。
しかし、帰国した義貞を待っていたものは、幕府の有力被官による巨額の徴発であった。楠木正成の拠る千早城を落とせずにいた幕府はさらなる大軍を投入するとして、2人の徴税使を派遣して6万貫の天役を命じたのである。これに怒った義貞は徴税使の1人を討ち、1人を捕縛。この事件はその日のうちに鎌倉にまで伝わったといい、得宗(鎌倉北条氏の嫡流)・北条高時は新田氏追討を武蔵・上野国の御家人に下知した。この窮地に追い込まれた義貞が事態を打破するため挙兵に踏み切った、と見ることもできるのである。

同年5月8日、150騎ばかりの一族や家人を率いた義貞は新田荘の生品神社で鎌倉幕府追討の旗揚げと戦勝祈願をしたのち、鎌倉へと向けて進軍を開始する。その顔ぶれは、新田義貞・脇屋義助兄弟、大館宗氏とその子の幸氏・氏明・氏兼、堀口貞満・行義兄弟、ほかに岩松経家・里見義胤・江田光義・桃井尚義らであった。
この後の義貞の進軍経路には諸説あるが、まずは東山道を西進して上野国の政治的中心部・上野守護所に近い八幡荘を制圧したようである。また、この地点は越後・信濃国方面からの軍勢を集結させるのにも恰好の地で、この日の夜までには近国から馳せ参じた軍勢を加えて7千騎余の勢力になっている。
上野国の北条氏の拠点を叩き、越後の同族や諸国の軍勢と合流した新田軍は、翌9日に武蔵国へ進撃を開始した。
一方の幕府は、桜田貞国を大将、長崎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道らを副将とする上野・武蔵国の軍勢をもって正面からの迎撃にあたらせ、上総・下総国の軍勢を率いた金沢貞将は新田軍の背後を衝くために下総国下河辺荘へと向かった。
10日には両軍が武蔵国の中心部を流れる入間川を隔てて対峙し、11日には新田軍が入間川を越えて小手指原に進み、ここで両軍が激突した。両軍ともに激しく戦って新田軍3百余騎、幕府軍5百余騎が討たれたが決着せず、夕刻には双方ともに兵馬を収めて新田軍が3里ほど後退して入間川に、幕府軍は久米川に陣を取ったが、新田軍が翌12日の早朝より久米川畔に押し寄せて幕府軍を破り、敗れた幕府軍は武蔵国府まで落ちていった。
また、この頃に足利尊氏の嫡子・千寿王丸(のちの足利義詮)を旗頭とする軍勢が兵を挙げている。千寿王丸は尊氏が隠岐から脱出した後醍醐天皇を鎮圧するために出征するに際して人質として鎌倉に留め置かれていたが、5月2日に鎌倉大蔵谷の居宅を脱出したのちに新田義貞の鎌倉攻めに加わっており、その間の足取りは詳らかでないが、5月12日に上野国世良田荘で挙兵し、間もなく新田軍に合流を果たしたものと思われる。この千寿王丸の軍勢は挙兵時は2百騎ほどでしかなかったが、時間の経過とともに足利・新田連合軍の威光に従う者が参集して数万騎とも称される大軍に膨れ上がっていくことになる。
幕府は14日に北条泰家(高時の弟)の率いる大軍(10万ともされるが不詳)を増援軍として北上させ、15日未明にはこの軍勢と新田軍の戦端が多摩川畔の関戸・分倍河原にて開かれた。これまでの戦勝で勢いに乗ってきた新田軍であったが、連戦の疲れと兵力の差からこれを破ることができず、義貞は大きな打撃を被るまえにひとまず深兼まで兵を退かせた。一方の北条泰家は戦勝に油断し、新田軍を追撃しなかった。
しかしこの日の夜、三浦義勝が相模国人ら6千余騎を率いて新田軍に合流し、新手である自分たちが先陣を承ると申し出てきたのである。この三浦勢の来援に奮い立った新田軍は翌16日の未明より再度分倍河原への行軍を開始し、軍勢を3手に分けて一斉に奇襲攻撃を仕掛け、混乱する幕府軍を散々に撃ち破って鎌倉へと敗走させたのである。

17日には下総国の千葉貞胤や下野国の小山秀朝らの軍勢が、新田軍の背後を脅かす手筈となっていた金沢貞将勢を武蔵国の鶴見近辺で破っており、鎌倉を目前に控えた新田軍は同日に軍評定を開き、軍勢を3手に分けることとしてそれぞれの指揮官を定めた。その陣立ては、化粧坂方面は総大将の新田義貞やその弟の脇屋義助に堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田の諸将が従い、極楽寺切通方面は大館宗氏・江田行義・岩松経政・里見氏義・武田五郎。洲崎・小袋(巨福呂)坂方面は堀口貞満・大島義政・岩松経家・岡部三郎である。
明けて18日の午前6時より3軍の一斉攻撃が開始され、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂などで火の手が上がった。対する幕府軍は、化粧坂方面を金沢貞将が上総・下総・安房・下野国の軍勢を指揮して守り、極楽寺方面は大仏貞直に副えて甲斐・信濃・伊豆・駿河国の勢、洲崎・小袋坂方面を執権の赤橋守時が奥州・相模・武蔵国の軍勢でもって固め、さらには何処へも応援に出撃できる遊撃隊を鎌倉の内に待機させるといった万全の布陣で新田軍を迎え撃ったのである。
鎌倉は南方を海、残る三方を山に囲まれた天然の要害地であるうえに、崖面をさまざまに加工して防衛に特化させ、守るに易く攻めるに難い城塞都市であった。このため、新田軍による鎌倉への力攻めは峻烈を極めた。
この日の戦闘では洲崎・小袋坂戦線において、新田軍が赤橋守時を破った。守時の妹婿・足利尊氏は京都の六波羅探題戦線で討幕軍の中心人物であり、その子の千寿王丸も新田軍として参戦していたことから、守時は自身にも討幕軍への内通の疑惑が生じることを慮って、退却せずにその場で自刃したという。
極楽寺戦線においては、峻険な霊山の切通(峠を削って造成された道)の突破を困難と見た大館宗氏は稲村ヶ崎に迂回し、浜伝いに鎌倉への突入を図った。この浜の道には波打ち際まで逆茂木(木材や大きな木の枝で拵えたバリケード)が進入を阻んでおり、大館隊はこの逆茂木を突破して侵入には成功したものの、深入りしすぎて孤立し、霊山の山上に控える軍勢と前浜(由比ヶ浜)の海軍から狙い撃ちにされて敗れ、大将の大館宗氏が戦死した。
この大館宗氏の戦死を知った義貞は化粧坂戦線の指揮を脇屋義助に委ね、自らは本陣を極楽寺戦線に移って督戦にあたったが、城塞都市・鎌倉の守りは堅く、新田軍はどの口からも鎌倉に侵入することはできずにいたのである。
一進一退の攻防が続く中、突破口が開かれたのは21日の夜になってのことだった。新田軍の三木俊連が峻険な霊山を峰伝いに進んで極楽寺口を守る幕府軍の背後に回り、急襲を仕掛けたのである。これと併せて正面からも猛攻に及んだため、幕府軍は支えきれずに敗走し、極楽寺口はついに陥落した。
またこの日の夜、義貞が黄金作り宝刀を海に投じて竜神に祈ったところ、夜明け頃には海が引いて広大な干潟が出現し、新田軍はここを通って鎌倉に突入したともされているが、これは伝説化された伝承であろう。干潮の時刻になれば干潟は出現するが、幕府軍がそれを見落とすことは考えにくく、潮の干満を把握していた義貞が味方の士気を鼓舞するために干潮の時刻に合わせて宝刀を投じる儀式を演出し、これに高揚した新田軍が力押しに防衛線を突破したか、先述の三木俊連の急襲によってこの方面の防備が手薄になっていたことから進撃が可能となったということであろうと思われる。
ともあれ、この21日の夜半から22日の未明にかけて極楽寺坂切通の防衛線は新田軍によって破られたのである。

堅固な防備を誇った鎌倉も、その一角が崩れて大軍の侵入を許してしまうと脆いものだった。堰を切ったようになだれ込んだ新田軍の一部は化粧坂口を守る幕府軍を内外から攻撃して金沢貞将の軍勢を敗走させ、同様に小袋坂口の幕府軍も壊滅した。極楽寺坂口を守っていた大仏貞直は浜手に転じて踏み止まって防戦に努めていたが、先途を憂えた郎党が自害を勧め、その死出の道案内にと次々と自害していったが、貞直は「千騎が一騎になるまでも戦って名を後世に残すことこそ勇士の本意」と罵倒し、残った手勢を一丸にまとめると脇屋義助隊めがけて最期の突撃を敢行し、壮烈な玉砕を遂げた。
ここに鎌倉の防衛線は完全に瓦解し、こうなってしまうと逆に幕府方は逃げ道を失うこととなり、大勢は決した。
得宗・北条高時は自宅を捨てて葛西ヶ谷の東勝寺に籠もり、そこへすでに破られた化粧坂戦線から金沢貞将が血路を切り開いて退いてきたが、身に7ヶ所の傷を負って戻ってきた姿を見た高時は感激し、その場で執権職を与える旨の御教書を与えた。無論これは今となっては画餅の恩賞でしかないが、貞将はこれを誉れとして拝受し、再び戦場に討ち出て斬り死にを遂げた。その身に纏っていた鎧には「我が百年の命を捨てて、公(高時)が一日の恩に報ず」と裏書した御教書が差されていたという。
また、遊撃隊の将として鎌倉内に在った長崎高重は、今生の思い出に存分に戦って冥途の土産にするからと高時に自刃をしばし思い止まるように申し出て東勝寺から出撃し、山内・葛西ヶ谷などで10回以上も戦って鎧に23本もの矢を受けながらも東勝寺に戻り、まずは自分が手本を見せると称して最初に自刃したという。
こののち、北条高時以下の金沢・名越・佐介ら北条一門と長崎・諏訪・南条ら得宗被官の283人ことごとく自害し、鎌倉北条氏は滅亡したのである。