斯波家長(しば・いえなが) 1321〜1337

斯波高経の長男。斯波氏経義将・義種の兄。通称は尾張弥三郎。
足利尊氏に仕えて陸奥国の足利氏所領の管轄に従事していたが、中先代の乱鎮定直後の建武2年(1335)8月30日に15歳で奥州総大将に抜擢されて陸奥国斯波郡の高水寺城に拠った。この措置は、建武政権からの離脱を志向した尊氏が陸奥の多賀国府に在った北畠顕家に対抗させるものと見られる。
同年12月、尊氏が後醍醐天皇より派遣された新田義貞の軍勢を破って京に向かうと、これを追撃するため北畠顕家が多賀国府から出征(北畠顕家の征西)したが、家長は多賀国府を攻略して鎌倉まで北畠軍を追撃し、鎌倉に入ったのちはそのまま留まって尊氏の嫡子・足利義詮の補佐役として鎌倉府執事に任じられ、関東から陸奥・出羽国に亘る広大な領域を管轄する重責を担った。
建武3(1336)2月には陸奥国に従兄弟・斯波兼頼を派遣するなどして北朝(足利)方勢力の拡大を企図したが、再び陸奥国に差し下された北畠顕家の軍勢と相模国片瀬川に戦って破れ、鎌倉を捨てて三浦半島に逃れた。
北畠軍が北上したのちは再び鎌倉に戻り、建武4:延元2年(1337)3月には北朝より陸奥守に任じられている。
しかし、南朝を興した後醍醐天皇からの綸旨を受けて2度目の征西に向かう北畠顕家の軍勢を武蔵国の利根川畔で迎撃するも敗北を喫し、鎌倉に攻め込まれて同年12月25日に鎌倉の杉本観音寺で自刃した。享年17。