足利満直(あしかが・みつただ) ?〜1440

第2代鎌倉公方・足利氏満の子。二男か。足利満兼の弟。足利満貞足利満隆の兄弟でもあるが、この満直・満貞・満隆ともに生年は不明である。
応永6年(1399)春、前年に3代目の鎌倉公方となった兄・満兼の意向を受けて陸奥国を管理するために派遣されたが、鎌倉公方が介入することに反発する大崎氏や伊達氏らに阻まれて陸奥国中域に進めず、安積郡篠川に御所を構えたため篠川公方(御所)と呼ばれた。
甥で第4代鎌倉公方の足利持氏が関東管領の上杉氏、さらにはその後ろ楯となっていた幕府と対立した際には一貫して反持氏の立場にあり、応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱にも上杉禅秀方に与して陸奥国で反持氏の兵を募っているが、幕府が持氏支持を決めると、禅秀勢の討伐を命じられた駿河守護・今川範政の回状に応じて幕府方へと転じた。
また応永30年(1423)や正長元年(1428)に持氏が幕府に反抗する動きを見せた際にも、幕府の命を受けて持氏の動静に備えている。
この満直が将軍家に与同して持氏に対抗しようとする動きは、自らが持氏に代わって鎌倉公方の地位に就くことを目論んでいたものとされており、実際に永享2年(1430)8月には持氏に代わって鎌倉公方となることを幕府に願い出ている。
その後の永享の乱でも幕府と連携して反持氏の兵を挙げた。
永享12年(1440)、下野国結城城主・結城氏朝が持氏の遺児である安王丸春王丸兄弟を迎えて挙兵した結城合戦のさなか、氏朝に与した石川持光ら陸奥国の諸将に攻められて、同年6月10日に自害した。