足利満貞(あしかが・みつさだ) ?〜1439

第2代鎌倉公方・足利氏満の子。四男か。第3代の鎌倉公方・足利満兼の弟。足利満直足利満隆とも兄弟であるが、この満直・満隆・満貞とも生年は不詳。
応永6年(1399)春、兄・満兼によって陸奥国管理のために陸奥国岩瀬郡稲村に派遣されたことから、稲村公方(御所)と呼ばれる。兄弟の満直は同様に篠川に派遣されて篠川公方と呼ばれ、両御所の機能はかつての奥州探題と同様であったが、現存する文書の発給状態から推察されるところでは、稲村御所の方が先行あるいは優位に機能していたようである。
応永9年(1402)の伊達政宗の乱を鎮圧したのち、南奥州の在地武士団を一揆契状の形で掌握することに成功した。
応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱には、上杉禅秀に与する態度を明確にした足利満直・満隆とは違って持氏方の立場であった。これと前後して満直との政争が生じていたことも窺われ、これに敗れて応永31年(1424)11月に鎌倉に帰ると、4代目の鎌倉公方で甥にあたる足利持氏に迎えられている。
なお、満貞はこれ以降も陸奥国の諸氏に文書を発給しているが、持氏を戴いた形式ではなく、あくまでも独自の立場からのものである。
永享10年(1438)に始まった永享の乱にも足利持氏を援けて満直と対立、永享11年(1439)2月10日、持氏が鎌倉瑞泉寺で自害したとき、共に自害した。