今川範政(いまがわ・のりまさ) 1364〜1433

今川泰範の子。従四位下・上総介・民部大輔。扇谷上杉氏定の娘を室に迎えているが、正室か側室かは不詳。
応永16年(1409)と見られる父・泰範の没後に家督を継承したようだが、範政発給文書の初見はその3年後の応永19年(1412)である。応永21年(1414)に駿河守護となった。
駿河国は、幕府に反抗的であった鎌倉府の管国と境界を接し、京都と鎌倉を結ぶ東海道筋であることなどからも要衝であり、その駿河国の守護に任じられるということは鎌倉府への目付け役を負うということでもあったが、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では上杉禅秀によって鎌倉を逐われた鎌倉公方・足利持氏を保護し、4代将軍・足利義持の命を受けて軍勢を鎌倉に攻め入らせる一方で禅秀方の武将に呼びかけて離反を促すなど、乱の鎮定に尽力した。
しかし幕府と鎌倉府の関係修復は成らず、永享4年(1432)9月に6代将軍・足利義教が足利持氏を威圧する為に富士遊覧を名目として下向するに際し、駿府に望嶽亭という建物を建てて義教一行を歓待している。
晩年には家督を末子の千代秋丸に譲ろうとしたが、幕府は対鎌倉府への政策からこれを許さなかった。このため長男の彦五郎(のちの今川範忠)・二男の弥五郎(小鹿範勝)・千代秋丸(小鹿範頼)らが、国人層を巻き込んで激しい家督争いを展開している最中の永享5年(1433)5月27日に没した。享年70。法名は今林寺殿慶堂道賀大禅定門。
歌人としても知られ、『新続古今和歌集』に2首が撰ばれており、『源氏物語提要』を著した。また、他にも多くの古典の書写・校合を行っており、文化的な業績も大きい。