今川泰範(いまがわ・やすのり) 1334〜1409?

駿河守護・今川範氏の二男。今川了俊の甥にあたる。上総介・宮内少輔。法高と号す。
はじめ鎌倉の建長寺に入寺して喝食となっていたが、貞治4:正平20年(1365)4月に父・範氏が没し、同年10月に泰範の兄である今川氏家が駿河守護職を継承したが、その氏家も貞治6:正平22年(1367)から応安2:正平24年(1369)の間に没したと目される。
氏家は死に臨んで駿河守護職を了俊の子・今川貞臣(義範)に譲ろうとした(あるいは譲った)が、了俊はこれを固辞し、泰範を還俗させて譲らせたという。泰範の駿河守護就任の時期は不詳であるが、応安2:正平24年5月28日付の書状の内容から守護職に在ったことが認められるので、それ以前ということになる。
永和4:天授4年(1378)に侍所頭人に任じられる。
嘉慶2年(1388)9月、将軍・足利義満の富士遊覧を迎える。この義満の駿河国下向は表向きは遊山であるが、その実は2代鎌倉公方・足利氏満への威圧である。
明徳2:元中8年(1391)12月の明徳の乱に際しては幕府軍として東寺に布陣して高名した。
しかし応永2年(1395)、それまで九州探題職にあった了俊が解任されて駿河半国の守護に任じられたため、泰範の領国は半減する。
応永6年(1399)11月の応永の乱にも参陣し、森口を攻めて陥落させ、ついで丹波国より攻め上ってきた宮田時清(応永の乱で敗死した山名氏清の子)の軍勢を撃退するなどの戦功を挙げたという。
この応永の乱とは、大内義弘が和泉国堺で幕府に対して兵を挙げたものだが、義弘は了俊を通じて3代鎌倉公方・足利満兼とも結んでおり、乱の鎮定後には了俊も罪に問われたが、泰範はかつて了俊のために領国を半減されたとの確執を抱えながらも同族である了俊の助命嘆願に尽力したとされ、これらの功績の恩賞として翌応永7年(1400)1月に遠江守護ならびに駿河一国の守護に任じられた。なお、前任の遠江守護は今川了俊・仲秋兄弟であった。全国的にも格別に声望の高かった了俊の没落、そしてその遠江守護職を継承したことにより、名実ともに泰範が今川氏惣領と認められたということであろう。
没年には数説あり、『今川家略記』『寛政重修諸家譜』等では嘉慶2年9月24日に55歳で没したとしているが、泰範は応永14年(1407)9月9日付で遵行状を発給していることから、『今川家譜』が記す応永16年(1409)9月26日に76歳で没したとする説が蓋然性が高い。