常陸国佐竹氏の一族。佐竹貞義の七男。佐竹義篤(第9代)の弟。通称は七郎。道号は倍仲。掃部助・刑部大輔。
足利尊氏・直義兄弟の旗揚げより仕えたといい、建武2年(1335)の中先代の乱に際して従軍したかは不詳であるが、同年12月の箱根・竹ノ下の合戦には兄の義篤や義春とともに従軍したとみられる。
その後に京都へ攻め上った足利軍は建武3年(1336)2月に西国に向かうことになるが、この時点で兄の義篤・義春らが常陸国に帰ったことに対して師義は引き続き足利兄弟に従軍し、同年3月の筑前国多々良浜の合戦、5月の摂津国兵庫での湊川の合戦にも従軍した。
その後の京都や鎌倉での合戦にも戦功を立て、足利尊氏から常陸国久慈郡山入ほかの所領を賜った。のちに師義の系統はこの山入を本拠地として山入氏を称して幕府の直臣(京都扶持衆)となり、佐竹一族のなかでも独立色の強い一派となった。
貞和元:興国6年(1345)8月29日の京都天竜寺の落慶供養には、足利尊氏・直義の従者として供奉している。
また、貞和5:正平4年(1349)8月、足利氏重臣の高師直が直義の罷免を求めて尊氏邸を包囲した際の軍勢の中に、師義の名前も見えている。
系図等では観応2:正平6年(1351)に死去したとされるが、文和元:正平7年(1352)閏2月の武蔵野合戦にも尊氏方として参陣したなどの記事があり、不詳と言わざるを得ない。